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ウィリアム・ブグロー研究


William BOUGUEREAU (1825-1905)
アトリエのブグロー

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  これまで”ブーグロー”でしたが、仏語発音にむしろ近い”ブグロー”が
一般化してきた現状をふまえ、また検索の便宜上、HPのタイトルを”ブグロー”とする


 このサイトは、日本でまだ知名度の低かったウィリアム・ブグローの人と作品を紹介する趣旨の下、2001年の私の処女作を出版するのと同時に立ち上げたものです。
  新しくバージョンを変え、より多くの画像を取り込むことで、フランス19世紀という時代の息吹きを感じていただければと思います。



ウィリアム・アドルフ・ブグロー William Adolphe BOUGUEREAU (1825-1905)

 
フランスの画家。

1825年     フランス南西の都市、ラ・ロシェルに生まれる
1844年     ボルドー市立デッサン・絵画学校にて一等賞を得る
1846年     パリ国立美術学校(ボザール)入学
1850年     ローマ賞受賞             ヴィラ・メディチでシャルル・ガル二エと出会う
1856年     フランス政府より制作依頼
1857年     サロンにて一等賞受賞
1859年     レジョン・ドヌール五等勲章
1861年     政府買い上げ
1862年     政府買い上げ
1875年     アカデミー・ジュリアンにて指導始める
1876年     フランス美術アカデミー会員になる
レジョン・ドヌール四等勲章
1877年     政府買い上げ
1878年     万博にて名誉賞
1879年     政府買い上げ
1884年     美術アカデミー会長になる
1885年     サロンにて名誉賞
 レジョン・ドヌール三等勲章
1888年     国立美術学校の教授に任命される
1903年     レジョン・ドヌール二等勲章
1905年     ラ・ロシェルにて死去

19世紀後期のフランス美術の代表的画家の一人

甘美な画風の神話画、寓意画、宗教画、肖像画を描く

イタリア留学時に15世紀イタリア美術様式から影響を受ける

国際的な名声を得、ありとあらゆるメダル、名誉、富を得る

作品の多くはイギリス、アメリカで個人コレクションとなっている

主要作品;
ビーナスの誕生(パリ、オルセー美術館)
慰めの聖母(ストラスブール現代美術館)
装飾壁画:
(パリ、サン・クロティルド教会)
(パリ、サン・ヴァンサン・ドゥ・ポール教会)
(パリ、サン・トーギュスタン教会)
(ラ・ロシェル, ラ・ロシェル大聖堂)
(ボルドー、グラン・テアトル)
 


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ウィリアム・ブグロー
発見への旅

米永 輝彦 著





 
***本書は既刊本『ウィリアム・ブグロー発見への旅』を大幅に加筆・訂正した電子書籍です***






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古絵葉書で辿る
ウィリアム・ブグロー
人生の軌跡

米永 輝彦 著





 
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変わりゆく日本を見つめて
フランスからの帰国者の回想

米永 輝彦 著





***本書は既刊本『フランスからの玉手箱』を大幅に加筆・訂正した電子書籍です。ペーパーバック版もあります。***

 コロナが終息へ向かっている中で、海外へ目を向ける人が増えている。それは旅行であったり、留学であったりするが、大志をもって学ぶ目的があるなら、世界へ飛び出していってほしいと思う。

 新しいことに挑むということは、環境に大きな変化がおきるということ。海外に出ることほど大きな変化はないだろう。文化、言葉、生活習慣、考え方、宗教、食事、などである。目的を達成させるためには、色々な違いをどのように受け止めていくかにかかる。

 後ずさりしていては前に進めない。

 しかし、日本人であることの自覚無くして、他国の文化を学ぶことの無意味さを知ってほしい。実際に外国に行かなければわからないことは数多くある。魅力的に見える面があれば、醜い面もあるのだ。

 また、長期の海外生活を経ての帰国では、日本国内の状況に変化があることも心得ておく必要がある。私の経験から得たものが誰かのお役に立てれば幸いです。






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 東京図書出版
フランスからの玉手箱
変わりゆく日本を見つめて

米永 輝彦 著





   《フランスへの憧憬から自己覚醒へ》

 急激な時代の変化に伴い、我々は海外からの人の流入に対する対策を急がねばならない。その一方で、古き良き日本の伝統文化や日本人の性質が失われつつある現状がある。

 16年間のフランス体験を通して、再発見した日本の素晴らしさや日本人の神髄を伝えるエッセイである。

 しかし、根底にあるのは日本の将来を憂う気持ちであり、現状の日本が日本でなくなり、日本人が日本人でなくなっているおかしな現象が起きていることにある。

 またフランスの文化やマナー、日本の歴史や礼儀などの両国の違いや価値観の違いは、留学を予定されている人に伝えたいことである。


?日本とフランスの文化の違いから学べる事
日本人の視点で見る必要性


?海外に出る際(旅行・留学・遊学)の心構え
見聞を広め発見・感動がある一方で、身に迫る危険・怖さがある
拉致問題は貴重な教訓を我々に与えてくれた


?日本伝統文化固有の特質が失われゆく現状
日本人の特性、礼儀・作法の欠如やモラルの低下
かつては若者、今では無自覚な行動をとるのは大人たちである





◎投稿原稿◎




「小説家になろう」⇒
[フランスに16年、見た、感じた、そして、今思うこと]
◎講演会◎




◎国立西洋美術館が3点のブグローを購入◎

"La Tribune de l'Art"の7月1日付けの記事によると上野の国立西洋美術館が3点のブグロー作品を購入したと伝えている。




◎ブグローの本◎

『ウィリアム・ブグロー カタログ・レゾネ(総目録)』
William Bouguereau: His Life and Works /Catalogue Raisonné of his Painted Work
Damien Bartoli 著 
2010年アメリカにて刊行





   これはブグローの愛好家の間で長い間出版を熱望されていた作品である。しかし、一番に出版を待ちわびていたのは著者であるダミアン・バルトリであったが、不幸にも2009年12月、彼は自分の処女作を見ることもかなわずこの世を去った。

   このカタログ・レゾネは彼の遺作である。彼にとっての30年もの地道な研究が今晴れて、日の目を見る珠玉のブグロー研究書である。彼との出会いからお互いのブグローへの情熱を通じ、情報交換を行い、私の日本帰国後も更に共同研究をするなかで友情を育みあってきた。2005年のブグロー没後100年の出版を目指し、原稿も数年前には完成していたが、諸般の事情で出版が遅れたことが悔やまれてならない。私にとってこの作品は彼との友情の証であり、またこの作品で今後のブグロー研究にとっての新たな視座が得られることを期待する。



second version


single version


ダミアン他界後にRoss夫妻著として出版された本。私としては非常に複雑な気持ちです。





生前のダミアン(パリのブグロー邸で大理石のブグロー像を囲んで)


◎試論◎

「一画家に見る西洋の精神性」

米永 輝彦



 本稿で取り上げるテーマを選定するにあたり、フランスを語る上で、切っても切り離すことのできない「芸術」がフランスの繁栄に大きく影響を及ぼしてきたことは、周知の事実であるということから、フランス人の精神が、どのように芸術の意識の芽生えに連関しているのかを注視しながら、西洋の精神性を検証してみたいと思う。


 西洋美術は世界の美術を牽引してきた。西洋人は単に美的意識に秀でた民族としてだけではなく、その根っこに人を突き動かす精神を持ち合わせているという点にも着目することで、この民族を理解するきっかけが得られるのではないかと思う。


 そこで、特にフランス人の精神性をフランスの通史から見てみると、浮かび上がってくるのは革命への民衆の叫びがあることに気付かされる。封建国家による虐げられていた民衆の心からの自由を渇望する悲痛な叫びが伝わってくる。


 一九世紀は革命の世紀であり、民衆の中に湧きあがった団結心や蜂起などをみると、何がここまで人を革命へと駆り立てるのか、西洋の精神性に対するこの問いかけは、我々が現代を生きていくうえでも、普遍的かつ今日的な問題をはらんでいると思われる。というのも現在の私たちの取り巻く環境は一九世紀と違って物は豊かで何不自由無く生活がおくれるものの、人々は精神的には病んで、現実に対して無力感を感じている。


 一九世紀のパリ民衆の社会生活というと、貧困と犯罪、それに反乱の世界であった。しかし、惨憺たる状況の中にあっても、貧困の中で自己主張し、行動するかれらの姿に何か生き生きとした生へのひたむきさがあり、強靭な生命力や精神力が感じられ感動的でさえある。


 特に一九世紀に特化してこの問題を提起する理由は、それが革命の世紀であったことと同時に、美術史のなかでも大きな転換期をこの世紀に迎えているからであり、また私自身の着目している、この時代に生きたフランス人画家の生き様を見ても、必然的にこの時代が生んだ画家であり、アヴァンギャルドの出現に対し、旧態依然とした伝統を守る保守派の立場ではあっても、毅然とした態度で自分の信念を貫いた人物であり、近代絵画史において重要な転換期に台頭してきた新しい流れの起因に関係した人物であるといっても過言ではない。そのため歴史の上では日陰の存在と化し、忘れ去られる格好となってしまったが、一九世紀の美術史において、印象派の誕生を語る上では重要な人物であり、確固たる位置を占めていることに変わりはない。


 要するに「官学派」に対して、反逆者として歴史に登場してきた彼らとて古典伝統を学び、尊重し、その後継者であることが真の前衛であり、突然に出現するものではないと言えるだろう。そのことから彼を取り巻く一連のアカデミスムに対する再評価としての研究が現在、世界的に起こっている。           ---序文---





巡回展「ウィリアム・ブグロー発見への旅」
東京展の開催は未定

図版は『アムールとプシュケ---子供たち(1890)』個人蔵







◎ブグローの本◎

『ウィリアム・ブグロー発見ヘの旅』
米永 輝彦 著 新風舎
没後100年記念出版 出版賞受賞




カバー図版: 口づけ (1890)
キャンバスに油彩 145×91cm
Copyright (C) 但陽信用金庫
ブグローの精緻で甘美な世界


 セザンヌやルノワールを落選させた19世紀フランス・アカデミスムの
巨匠ウィリアム・ブグローの足取りをたどる旅へ。


 理想を求め曖昧さを許さないブグローの作品群は、私たちに新しい発見をもたらす
ことだろう。作品のカラー口絵32点。資料として価値の高い古絵葉書や19世紀
の書物に見られる貴重な図版も多数掲載。ISBN4-7974-7372-X A5型書籍


カーリル



『ウィリアム・ブグロー発見への旅』の出版に寄せて 
米永 輝彦



フランス19世紀アカデミスム絵画に対する評価の見直しが欧米で行われるようになって久しい。


 ウィリアム・ブグロー没後百年を迎える今年、美術史から忘れられていた画家がこの長い不遇の期間を経て、改めて日の目を見るようになり、生涯における全作品の八割程が判明してきたこの現状はまさに奇跡である。しかし、現実には再評価とはいくらか意味合いは違っている。


 ポンピエと蔑称された画家の世界的な再評価の動きの中で、特にこの日本ではその存在すらさほど知られていなかった画家であることから日本人には目新しく、日本人画家にない、その卓越した技術や西洋文化への憧憬が、表面的ながら、その精緻で甘美な世界に魅かれるというのも、今この画家が注目される理由としてあげられよう。
これまでの百年とは違ったこれからの百年の鑑賞に堪えうる作品となるか厳しい批評 にさらされ真価が問われていくことだろう。


 近年、アカデミスムの代表的画家一人ひとりにスポットが当てられ19世紀後期アカデミーの果した役割に美術史で確固たる位置付けが与えられて、それがアカデミー派画家の復権に寄与してきた。
 時代的に新古典主義、ロマン主義を経て印象派へと移っていく過程で、前衛的流派の出現は突発的なことではなく、伝統的な古典主義への反発とはいえ、それはあくまで古典の深い理解と認識があってはじめてアカデミスムをステップとして別の視点にたった表現が目指せるのである。そういった観点から印象派の誕生を知るためにもアカデミスムの研究に目が向けられるのは当然の帰着であり、意義のあることであろう。

 私はこのアカデミスムと同義語ともいえるウィリアム・ブグローと長年深く関わってきて、色々な資料収集や作品を訪ね歩き、画家の子孫との出会いもあり、貴重な資料、個人蔵の作品に触れられた。


 本書『ウィリアム・ブグロー発見への旅』では私のブグロー研究で、徐々に私の画家としての表現の認識を改めていく心の変化の過程と画風から受ける誤解を払拭し、高潔な人物の内面の世界を描こうと試みた。


 ウィリアム・ブグローのスタイルは保守的な古典主義を踏襲していると見られるがあくまでも彼が到達した彼ならではの世界であり、制作態度には曖昧さを許さない張り詰めた緊張感で彼自身のなかにはマンネリ化は一切見られず、一貫して美への追及が生涯にわたって見られた。


 19世紀のフランス史で起こった諸々の出来事は市民一人ひとりが何らかのかたちで関わった1848年革命であり、パリ・コミューンである。一人の人物の生涯を知ることはその舞台裏を知ることであり、市民戦争の実態やその時代の精神がどういう ものであったかを知る事ができる。


 フランス学士院会長の座にまで上りつめた知性と、画家の特性である豊かな感受性で、時代を捉えている膨大な書簡などから、混沌とした時代のなかで寵児としてもてはやされ、激動の時代を駆け抜けた19世紀後期のフランス画壇を代表する画家の生き様が浮き彫りにされている。


 こういった事例も視覚的に理解を助けるのが古絵葉書である。本書では私の膨大なコレクションの中から適切に状況を伝える古絵葉書の写真と貴重な図版とをあわせ140点を選りすぐり、見る者を19世紀の旅へと誘うと共に、ブグロー芸術をよく表わす厳選された32点の作品のカラー写真を通してブグローの魅力を発見していただければ幸いである。



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WILLIAM BOUGUEREAU

時代背景


1795年 「ラ=マルセイエーズ」国歌となる 
1
いざ祖国の子らよ、
栄光の日は来た!
我らに向かって、暴君の、
血塗られた軍旗は掲げられた!
聞こえるか、戦場で、
あの獰猛な兵士どもが唸るのを?
奴らは我々の腕の中まで
我らの息子や仲間を殺しにやって来る!
武器を取れ、市民諸君!
隊伍を整えよ!
進もう!進もう!
不浄な血が我々の畝溝に吸われんことを!
2
何を欲しているのか、
奴隷と裏切り者と陰謀を企てた王どものこの軍団は?
この卑劣な足枷は誰のため、
久しく用意されたこの鉄枷は?
フランス人よ、我らのためだ、ああ!何という侮辱!
どれほどの激情をそれはかきたてることか!
奴らが厚かましくも古の奴隷に戻そうと目論んでいるのは
我らをなのだ!
3
何と!あの外国の軍勢が
我らの故郷で我が物顔に振る舞うだと!
何と!あの金目当ての軍隊が
我らの名うての戦士たちを打ちのめすだと!
ああ!鎖で手を繋がれ
くびきを繋がれた我らの首が屈するだと!
卑しい暴君どもが
運命の支配者になるだと!
4
震えよ、暴君ども、そして汝ら裏切り者よ、
あらゆる党の名折れよ、
震えよ!汝の親殺しの企みは、
ついにはその報いを受けるだろう!
全ての者が汝らと戦う兵士、
我らの若き英雄たちが倒れれば、
大地が再び彼らを産み出す、
汝らに対して皆戦いの用意はできている!
5
フランス人よ、寛容な戦士として、
打撃を与えるか控えるかせよ!
あの痛ましい犠牲者たちは容赦せよ、
心ならずも我らに武器をとる犠牲者たちは。
しかしあの血みどろの暴君どもは、
しかしあのブイエ将軍の共謀者どもは、
全てこの虎どもは、情け容赦なく、
その母の胸を引き裂くのだ!
6
神聖な祖国愛よ、
我らの懲罰の手を導き、支えたまえ!
自由よ、愛しき自由よ、
君の擁護者とともに闘いたまえ!
我々の旗の下、勝利の女神が
君の雄雄しい歌声のところに駆けつけんことを、
君の瀕死の敵どもが
君の勝利と我らの栄光を見んことを!
7
僕たちは道に足を踏み出すだろう
僕たちの先人がもはやいなくなった時には。
僕たちは見つけるだろう、彼らの亡骸と
彼らの徳の跡を。
彼らより長生きすることよりも
彼らの棺を共にすることに執着し、
僕たちは気高い誇りを持つだろう、
彼らの仇を討つか後を追うという誇りを!


1830年 フランス七月革命 


1848年 二月革命 

1848年 第二共和制 〜1852 大統領 ルイ・ナポレオン

1851年 ルイ・ナポレオンのクーデター 

1852年 皇帝ナポレオン三世 

1859年 ダーウィン『種の起源』(イギリス) 

1862年 ユーゴー『レ・ミゼラブル』 


1870年 普仏戦争 〜1871



1871年 パリ・コミューン




1881年 パストゥール、狂犬病菌を発見 


1885年 ユーゴー没  


1889年 エッフェル塔建設 


1894年 ドレフェス事件 

1898年 キュリー夫妻、ラジウム発見 


1898年 ゾラ『私は弾劾する』 


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WILLIAM BOUGUEREAU

古絵葉書に見るブグローの時代





 古絵葉書は歴史を知る上で非常に貴重な資料であり、その価値、重要性を知った のは,1905年のブグローの葬儀を伝える絵葉書を見た時であった。以来、私の古 絵葉書収集が始まった。それらは、ブグローを取り巻く社会、またその時代の人々の 生活を語っている。

 尚、フランスにおける最初の絵葉書は、1881年の挿絵入り葉書であるが、実際 写真入りのものは、1897年前には多くは見られない。撮影された年を知るのは難 しいが、消印で推測するしかない。また、表側が2つに区分され、通信欄が設けてあ れば1903年以降のものであり、全面が宛名欄のみであれば1903年以前に撮影 されたものである。



フランス全図


TITLE: ? ラ・ロシェル

フランス南西の海港都市。シャラント・アンフェリュ―ル県(現シャラント・マリティ―ム)の主都。主な産業は塩とワインであった。1154年からイギリスの支配下に置かれ1570年以降ユグノーの根拠地となったが、リシュリューに占領された。
18世紀になると、アンティル諸島の砂糖や三角貿易、そしてカナダの毛皮製品で町に過去の賑わいを取り戻していった。




TITLE: ? ラ・ロシェル


 18世紀には、商業のみならず、知的復興や、芸術的な輝きがこの街に見られる。
19世紀にもなると、異教徒同士の結婚は、もはや珍しくはなく、カトリック教徒で、ワイン業者であったエリ・テオドール・ブグローと、プロテスタントのマリ・マルゲリット・ボナンが1823年結ばれた。






TITLE: ? ラ・ロシェル


 1825年、11月30日、16時、ウィリアム・ブグローはブグロー家の次男として、このデュック通りで産声をあげた。残念ながら戸籍には番地は明記されてなく、他に知るすべは無い。出生証明書には第1洗礼名をアドルフ、第2洗礼名をウィリアムとしてある。しかし、後年、それらは逆転し、家族の中ではウィリーと呼ばれた。古絵葉書では見つからず現在の通りを両側から撮影。




TITLE: ? ラ・ロシェル


 誕生より5日後の12月5日、小教区の教会である、サン・二コラ教会にて、父方の宗教である、カトリックの洗礼を受ける。ウィリアムという名は、イギリスでの聖人の読み方であり、フランスでは、むしろ、ギヨームであることから洗礼名簿には、”アドルフ・ギヨ―ム”で記載されている。






TITLE: ? ラ・ロシェル


 その後、一家は、デュック通りの裏手に位置するサン・クロード通りに転居する。1828年、ウィリアムにとって最初の妹、マリ・アドリンが生まれる。当時はまだ、ラ.ロシェルは、都市の周りを、堀と要塞で囲まれていた。
海に一番近い門が、この”サン・二コラ門”であった。1856年、ラ・ロシェルに鉄道が開通するが、駅が近くであった事から”駅門”とも呼ばれた。しかし、1902年に取り壊される運命にあった。



TITLE: ? ラ・ロシェル


 ウィリアムの誕生から6年余りの期間は、残念ながらこれといった情報は見つかっていない。1832年、父テオドールの仕事の関係で、ー家は、ラ・ロシェル港の沖合いに浮かぶレ島に移り住む。総面積74km2の小島ながら、産業は牡蠣の養殖、塩、ワインが盛んである。






TITLE: ?サン・マルタン・ド・レ


 一家はレ島のサン・マルタン・ド・レに移り住む。ウィリアム、7歳の時であった。子供の成長期において感受性が強く、好奇心が芽生えだす年頃である。6年間のレ島生活は興味深い。1834年、この地で2番目の妹、カトリーヌ、通称キィティが生まれる。その出生届には、ブグロー家の住所は簡略的に港岸としか記載されていない。





TITLE: ?サン・マルタン・ド・レ


 ウィリアムにとって、レ島の生活は、同時に義務教育の始まりでもあった。丘の上の広場の一角にあるサン・マルタンの市立小学校に入学する。小学校に隣接する劇場は現在、体育館になっているが、その目の前にある広場が、当時、運動場として利用されていた事は容易に想像できる。






TITLE: ?サン・マルタン・ド・レ


 ウィリアムは徐々に勉学よりもデッサンにおいて、際立った感性を示し始める。学校の本やノートには船、風景、農民や漁師のデッサンで満ちていた。また、船体や田舎仕事で使うあらゆる道具を、ナイフで木片に刻むのが得意であった。新天地でワイン仲買人としての仕事を始めた父親ではあったが、次第に家庭内で色んな問題が起こり始めていた。





TITLE: ?サン・マルタン・ド・レ


 徐々に、夫婦間に溝が生じ、幼い末っ子を除いて子供たちは、よそへ預けられるようになる。ウィリアムが叔父(モルターニュ・スュー・ジロンドの主任神父)に預けられる背景にはこういった家庭内の問題があったのである。
*丘よりサン・マルタン・ド・レの港、遠景に水平線を望む。1838年、モルターニュ・スュー・ジロンドに向けて出発する。
一旦、ラ・ロシェルへ渡り、乗り合い馬車(当時は郵便物を運ぶ馬車が交通機関として利用されていた)に揺られ、乗り換え地であった、ソジョン市へ向かうのである。



TITLE: ?モルターニュ・スュー・ジロンド


 サン・マルタンからモルターニュまでの道程で、はっきりわかっている事は、ソジョン市からドルイヤールという名の農民に連れられ、牝馬の背に揺られて、ある春の夜、モルターニュに到着したというだけである。おそらく、ラ・ロシェルの親戚の誰かがソジョン市まで同行し、モルターニュから馬で迎えにきたのが、ドルイヤールであろうと推測する。しかし、ドルイヤールという名は、私が調べた範囲では、その時代この地域に一人も見つけ出せなかった。



TITLE: ?モルターニュ・スュー・ジロンド

 
 19世紀の旅というのは、快適なものではなく、特に乗合馬車による移動では、色々な突発事故が発生している。しかし、ウィリアムにとって、この旅は少年時代の楽しい思い出として後年、述懐している。
異教徒によって破壊されたこの教会には、1860年まで鐘楼は存在しなかった。 サン・テティエンヌ教会に隣接する司祭館で、ウィリアムを温かく迎えたのは、ウジェーヌとその妹のアメリーであり、それにマリという賄いの年配の女性であった。
この建物の右半分は増築によるもので、当時は裏庭へ通じる道があった。


TITLE: ?モルターニュ・スュー・ジロンド


 ラ.ロシェルから98km離れたモルターニュの1900年頃の人口は、約1500人、現在は1000人にも満たない。
この地域の特徴である海食崖のある起伏と、広い眺望がきくことから、省令で風致地区に指定されている。 ジロンド川を望む海食崖の上に建設されたこの古い町は、ヨーロッパの最も大きな河口の広い部分を、一望のもとに収めている。
19世紀にはジロンド川における重要な寄港地であり、造船も行われていた。シャラント地方のぶどう園の一部を成し、産業はワイン、蒸留酒である。


TITLE: ?モルターニュ・スュー・ジロンド


  話は逸れるが、ジャンヌ・ダルクに興味をもっていた頃、生地であるドムレミ村を訪ねた際、四方、人っ子一人いないその一帯を徒歩で数時間さまよった事があるが、フランスの雄大さを肌で感じ、過去へタイムスリップしたような体験をもった。このモルターニュの現在においても同じことが言える。 ウィリアムは叔父からキリスト教の基礎を教えられると共に、乗馬や射撃の手ほどきも受け、シャラント地方の名所、旧跡を案内され、自然と直にふれあい、この時期に得たものは計り知れない。



TITLE: ?モルターニュ・スュー・ジロンド

 
 裏庭の4本桜のところで、叔父が銃を構え、黒歌鳥を狙っている姿を見た時の驚きを後年、述懐している。裏庭は司教館の入り口と比べ、地盤が低いため、一階に居るつもりが裏庭に出るには台所の脇の階段から階下へ降りる格好になる。井戸、納屋、水浴びのための小屋など、当時の生活を彷彿させる空間である。 サン・テティエンヌ教会の天井様式が改修されたため近代的であるが当時の天井はより高かったと推測される。叔父ウジェーヌはこの教会の主任神父であり、モルターニュ地区一帯を廻る巡回神父の役も務めていた。叔父の傍らでミサにあずかるウィリアムの姿が想像される。



TITLE: ?モルターニュ・スュー・ジロンド

 
ブグローの視覚に訴え、感動させた光景に、私も立ち会って体感し、彼の感動を共有したい。私の古絵葉書収集における発見の喜びが、そこにある。 叔父と元海軍大佐といっしょにモルターニュからボルドーへ漁船に乗って旅行中、べック・ダムベスで見た
ジロンド川の日の出に感動したことを、子供時代の強烈な思い出として、生涯抱き続けたと後年述べている。




TITLE: ?ポン


 1838年、9月頃、ウィリアムの中等教育のため、ウジェーヌは、父親の同意の下、モルターニュから25km離れた、ポン市の全寮制の学校に入学させる。 この都市には要塞の跡が残っており、丘の上には12世紀の城と、30mの天守閣がそびえ、眼下にスーニュ川が流れている。この地はアルブレ家の家系の領地であり、プロテスタントの居留地であった。産業は、製粉業、皮なめし業、蒸留業である。




TITLE: ?ポン


 中心街を貫く通りを下っていくと、右手に折れる、コードリエ(修道士)通りがある。この言葉の由来は、昔、修道士が腰に紐(コード)をまきつけていたことからきている。この左手の建物が、ウィリアムが入学する小神学校である。ここでの3年間の寄宿生活で培っていくものこそ、ウィリアムにとって、画家として生きていく素養となっていく。





TITLE: ?ポン


これがウィリアムが通っていた学校の全景である。後方にはスーニュ川が流れ、田園風景が広がっている。この画面の左下から右上への対角線上をコードリエ通りが走り、その上半分の連なる建造物群がそうである。1868年の図面によると、建物の面積は1へクタール、所有する土地(森、空き地)を含めると総面積7ヘクタールを超える。
 残念ながら、現在、この大建造物を見ることは出来ないが、田園風景は19世紀とほとんど変わらない。



TITLE: ?ポン


ウィリアムが在籍していたクラスでは,司祭の監督指導のもとに敬虔心を養い、神学校で司 祭にとってふさわしい品性、教養を身に付けるための、下準備としての教義が行われた。
学習科目は、キリスト教教義、ラテン語仏訳、仏文ラテン語訳、古代ギリシャ語、歴史、地理学、綴字法、記憶喚起、哲学、数学、修辞学、科学であった。





TITLE: 21 ポン


このポンでの学校生活で特筆しなければいけないのが、ルイ・サージュとの出会いである。1838年から50年間、美術教師を務めた。アングルの信奉者であったが、パリに出る事はなく、トゥールーズのヴィルムセン(ダヴィドの弟子)のアトリエで絵を学んでいる。明治時代、多くの日本人が指導を受けたジャン・ポール・ローランスもこのアトリエの出身で、その後、パリに上京している。ローランスはヴィルムセンの娘と結婚する。小神学校の校長、ブディネの友人である、トゥールーズ法律学校の教授の紹介で、敬虔なキリスト教徒であるサージュの人格がかわれ、美術修行半ばで、ポンの学校に赴任してきたのであった。ウィリアムにとって、最初の絵の指導者である。地方都市にいながら、最初の段階で、体系的な指導方法を受けられたのは幸いであった。学校内にある、公会堂の舞台の装飾画はサージュの手による。



TITLE: 22 ポン


1830年の制服、制帽であるが、ウィリアムの在籍していた年も恐らく同じようなものであったろう。ウィリアムがデッサンを学んだ教室である。この学校の、これまでの聖職者による指導とは異なり、サージュは石膏像による擦筆画や鉛筆での風景画をとりいれている。遠近法、射影における理論を情熱をもって教え、その結果、生徒たちの進歩は早く、1840年には、非常に注目を集める展覧会を開いている。 残念ながら、ウィリアムは翌年には勉学を断たれることになる。



TITLE: 23 ボルドー


父親はオリーブ油の仲介業に着手する為、ウィリアムを急きょ、ボルドーに呼び寄せる。バカロレア取得まであと2年というところで学業を絶たざるを得なかった。1840年度の成績は、記憶喚起(カトリック聖人名の暗記)を除いて、全ての学科は学年で1番をとり、表彰されている。 ボルドー市は、セネガルとの落花生貿易を始めたのが1840年からであった。三角貿易で新大陸との商取引が盛んになっていく。フランス第二の港として栄える。19世紀のボルドーの人口は19万4千人。 産業は、ワイン、蒸留酒、タバコ製造。精糖所、精油所。


TITLE: 24 ボルドー


ウィリアムと家族が住んでいた住所は、マネージュ通りの18番地であった。古文書館で見つけた1870年の土地台帳には、その通りの1部が欠落している。故に現在の住所がそれにあたるか判らないし、建替え工事も考えられる。 父親が商売をしていたヌーヴ通りの20番地である。1841年の地籍図で照合すると、現在の番地とは異なっている。5階建て建物の1階に店舗はあった。そこでウィリアムは簿記の仕事をしていたのである。



TITLE: 25 ボルドー


 ウィリアムは、ヌーヴ通りの店から50メートル程隔てた、39番地(写真、右手の建物)に住んでいたシャルル・マリオノと知り合う。ウィリアムより2歳年長のマリオノは、既に市立デッサン学校の生徒であった。ウィリアムにも入学を勧める。 フランシスコ・デ・ゴヤはスペインから女友達とその娘と共にフランスへ亡命し、晩年をボルドーで送るのであるが、その娘を市立デッサン学校に入学させる。娘の送り迎えで学校には立ち寄るが、ゴヤはそこの指導に一切、口をはさむ事はなかった。ウィリアムはその学校に入学を認められるのである。
 当時、モンバゾン通りの元裁判所の建物のなかにその学校はあった。(写真、その跡地に現在は美術館がある)


TITLE: 26 ボルドー

 
デッサン学校の校長、ジャン・ポール.アローによって入学が認められたウィリアムであったが、父親の仕事を助けながらの学校通いであった。 建物の老朽化により1844年、広大なジャルダン・プュブリック(公園)内に移転する。(写真;公園入り口) 写真の右手の建物がそのアトリエであるが、対になる建物(後方に見られる)の存在から、共にアトリエとして使われていたと思われる。現在は壁が取り除かれ、レクレーションのための、あずまやと化している。



TITLE:  27 ボルドー


この2点の絵葉書は父親の店までの道程を示している。朝の授業を終えるとすぐ,グラン・テアトル(画面中央)まで進み、そこから左折後、直進し、右奥に入ったところにあるヌーヴ通りへと向かう。 絵の勉強において、父親から援助を受けられなくなったウィリアムは、アジャン産のプラム壷のラベルや、チョコレート2368RECTOの箱の底に敷く図版をリトグラフで制作し収入を得ていた。この時代の副業の”作品”に”スコットランド風景”がある。何かの図版を真似たのであろう。



TITLE:  28 モルターニュ


 1844年、コンクールで1等賞を受け、画家になることを決意する。父親から援助を受けられないウイリアムに対して、叔父はモルターニュ地域の知人を紹介し、肖像画を描いて、パリへ上京するための資金稼ぎができるよう便宜を図る。 2点の絵葉書はサン・ボネとサン・フォールであるが、それ以外にサン・ディゼン、サン・トマ、シエル・ラ・ランド、サン・ジャン・ダンジェリ(図版は割愛する)で3ヶ月間、肖像画制作に専念し、資金を得る。



TITLE: 29 パリ

  
1841年、ルーアン、オルレアン線が開通するも、パリと主要都市を結ぶ鉄道開通まで、まだ数年待たねばならなかった。1846年、ウィリアムは乗り合い馬車に揺られ、3月の初頭、パリの土を踏む。 この時代のパリは、市の全周を城壁に取り囲まれていて、12区に区分されていた。(現在は20区) 街は、じめじめと不潔で、通りは狭くて薄暗く入り組んでいた。




TITLE: 30パリ


19世紀において、乗り合い馬車の発着所周辺には、通常、安宿が集中していた。オデオン座の裏手も、その発着所のひとつであった。ウィリアムが降り立った場所であったか定かではないが、パリ到着時、このすぐ近くのホテルに滞在している。 ルーブル美術館に提出したウィリアムの模写申請書によると、19世紀のフランス文学作品の中で,よく扱われたオテル・コルネイユが住所になっている。40もの家具付き部屋があり、月極めで貸されていた学生向けの安宿であった。後年、グラン・トテル・コルネイユ(写真;右側)に名称が変わったが、現在は存在しない。


TITLE: パリ 31


ボルドーの校長アローの推薦状と、恐らく数点の作品も携え、当時の美術界で著名であったフランソワ・ピコのアトリエを訪ねる。ロッシュフコー通りとブリュィエール通りの角に位置する建物内に、ピコの私邸とアトリエがあった。しかし現在の建物は当時の建築様式とは異なる。 登録を認められたブグローは、そこでアレクサンドル・カバネル、ギュスターヴ・モロー、イズィドール・ピルス、ジャン・ジャック・エネールらと出会うのである。この作品はウィリアムのアトリエ仲間の一人、エドアール・ピルスの「ピコのアトリエ風景」であるが、出会ってから4年後に他界する。


TITLE: パリ 32


ウィリアムは1846年4月、王立美術学校(現パリ国立高等美術学校、通称ボザール)の入学試験を受け、合格するが、合格者100名中99番目という成績であった。 ウィリアムの時代は、美術学校での実技指導はデッサンだけであり、専門分野ごとのアトリエは設けられてはいなかった。1863年の改革まで待たねばならなかったのである。





TITLE: パリ 33


 ウィリアムは1846年4月8日、ボザールに登録する。当時の絵画科の教授陣は、エルサン、ドロルラン、ブロンデル、エム、そして新古典主義の巨匠アングルであった。 ボザール以外のボザールの教授が開いていたアトリエや私塾は、画学生にとって、技術習得に励み、大家に意見を求めることができる理想的な教育の場であった。当然、大家のアトリエは評判がよく、短期もしくは長期に学ぶ学生の数は数十名に上った。



TITLE: パリ 34


 メルポメネ室はボザールの中でも最も広々とした空間の一つで、長さ30メートル50、巾15メートル、高さ14メートルもある。この名前の由来は、ルーヴル美術館所蔵の大理石の巨大な女神像の複製がおかれてあったため、そう呼ばれていた。 壁一面にかけられてある巨匠の作品のコピーは、産業館内に設置されてあったヨーロッパ美術館からのものや、ローマのフランス・アカデミーの寄宿生から送られてきたものであった。 ブグローが在籍していた年度はエムリーによって解剖学の授業が行われていた。


TITLE: パリ 35


 1832年、鋳造品や建築モデル、古典作品のコピー、それに学生の受賞作品を所蔵するための学芸館が設立された。1863年にはガラス張りの天窓を設けて、コレクションをより広く展示する古代美術館として開館した。これらの作品は、1971年、ヴェルサイユの王宮付属の小厩舎に移された。 ボザールの中で最も古い建物にあたるこのチャペルは、そのコレクションが分散し、建物がボザールに割り当てられた後、石碑置き場となった。その後、イタリア、フランスのルネッサンス期の作品の複製を収める美術館となる。シガロンによるミケランジェロの”最後の審判”のコピー(1833年作)がある。


TITLE: パリ 36


ルーヴル宮殿は1793年、美術館が開館し、19世紀においても増改築を繰り返し、1857年、ナポレオン三世によって宮殿としての完成をみる。
 幕末使節団がナポレオン3世に謁見した、王宮であるチュイルリー宮殿はルーヴル宮殿の一角を占めていた。しかし、1870年のパリ・コミューンで焼失する。 当時のボザールの授業は、午前中のみであったので、画学生は午後を私塾やルーヴル美術館での勉強にあてていた。
 ウィリアムは、パリ上京まもない1846年3月には既にルーヴルから最初のコピー許可を得ている。


TITLE: パリ 37


 フランスでは1830年の7月革命後、産業革命が本格化し、資本家の力が増大し、それに伴い多くの労働者階級を生み出していった。しかし、7月王政(1830年ー1848年)の支持者である大資本家や銀行家などの大ブルジョワに有利な政策がとられていた。 人口の1%しか選挙権がもてない事に対する市民、労働者の抗議運動が起こり、国王、首相を退陣に追いやる。これを1848年の2月革命という。 この影響はヨーロッパ各地に波及する。その年の5月15日、2万人もの群集が議会に押しかけ、ポーランド支持の決議と議会の解散、新政府の樹立を要求する。彼らの後方より「国民議会万歳!」と、叫びながら、それを鎮圧した国民軍の隊列の中に、ウィリアムがいた。


TITLE: パリ 38


 初めて参加した1848年度のローマ賞コンクールで、ウィリアムは二等の次点を受賞する。この年はグランプリ受賞者が出ず,二等はブランジェであった。その結果、生地であるラ・ロシェルの市議会、また県議会からも助成金を得る事になる。 この作品は謝意を込めてラ・ロシェル市へ贈られたが、1849年度の落選作品である。 現在のラ・ロシェル市庁舎には絵葉書にある階段はなく、二階のホールへ上がるための小さな階段に改築されてある。寄贈作品は美術館に入る前までこの二階に展示されてあった。


TITLE: パリ 39


 1850年度のローマ賞グランプリはポール・ボドリーであった。しかし、二人の一等受賞者をだすことになる。奇妙なことに、1848年度に受賞者がでなかったため、ローマの寄宿先に空室があることから、次点であるウィリアムにもローマ賞が与えられる事になる。又、甲乙つけ難しの判断からか二等においても二人の受賞者をだすケースが多く見られる。  写真はボザールの学芸館内にある半円形講堂である。ポール・ドラロッシュの壁画で飾られた階段講堂は授賞式のためにあてられていた。ウィリアムはここで二つの賞を校長であるアングルから、ローマ賞をアカデミー終身書記から受けた。


TITLE: ローマ 40


フランスで起こった2月革命の影響がヨーロッパ各地に広がり、ローマでも暴動が起こり教皇ピウス9世がローマ脱出を図った。マッツイ―二率いる青年イタリア党がローマ共和国を樹立(1849年2月)、イタリア統一をめざし憲法会議開催を呼びかけた。ピウス9世はカトリック諸国に鎮圧を呼びかけ、これに応じたフランス軍の介入により、その年の7月、ローマ共和国は崩壊し、イタリア統一は失敗に終わる。 新たな侵略を抑止する役を担った、フランスの駐屯部隊がまだおかれてあるローマに、ウィリアムとローマ賞受賞仲間は1851年1月半ば到着する。


TITLE: ローマ 41


 1666年,若きフランス人芸術家にイタリアの古代美術を研究させるため、在ローマ・フランス・アカデミーが設立され、その後ヴィラ・メディチに置かれたのは1803年であった。ピンチオの丘にそびえるこの建物はローマ市街、正面にはバチカンを俯瞰し、古代美術品、幻想的装飾で飾られてある。 ウィリアムのローマ到着当時、アカデミーの校長を務めていたのはボルドー時代の師、ジャン・ポール・アローの兄であるジャン・アローであった。寄宿生の中にはカバネルやシャルル・ガルニエがいた。


TITLE: ローマ 42


 総敷地面積 59616.79?,建物面積5755.83? のヴィラ・メディチは、整備された優雅な庭園と広大な森とで構成され、各所に古代彫刻、胸像柱が配置され、幻想的雰囲気に包まれている。絵画・彫刻・建築・版画・音楽(作曲)のローマ賞受賞者20名は、生活を保証され、創作・課題に没頭する。 絵画・歴史画部門の受賞者は5年間の滞在が認められるも、ウィリアムに与えられた期間は当初3年間のみであった。 各自、建物の2階にあるアトリエ付きの住居を与えられ、大キャンバスを使う自由制作時は庭園奥に設けられたアトリエを使うことが出来た。また有名な食堂内の壁は、これまでの寄宿生の肖像画や自画像で埋まっていて、若き日の大家の顔に囲まれた独特な空間であった。しかし、現在は全て取り外され、そこにはビリヤード台が置かれてある。


TITLE: ローマ 43


庭園左奥に位置するこのサン・ガエターノ館内(下の写真)に、アングルは1805年から1810年まで小画室をあたえられ、二階に住んでいた。ヴィラ・メディチでの寄宿生活後も、ローマに留まり、このヴィラからさほど遠くないグレゴリアーナ通りにアトリエを構える。 1815年にローマ賞を受賞したジャン・アローはローマでアングルと親交を深める。「ローマのアングルのアトリエ」という絵がある。グレゴリアーナのアトリエ内で、バイオリンを手に妻マドレーヌと語らうアングルをジャン・アローが1818年に描いたものである。ヴァイオリンの名手であったことから、芸術家の余技のことを”アングルのバイオリン”という。 彼らは後年、ヴィラの校長の職につくのであった。


TITLE: ナポリ 44


イタリア留学期間中、ウィリアムは精力的にイタリア半島を広範囲に旅行している。特に留学一年目はアルフレッド・ドゥ・キュルゾンと行動を共にしている。彼は1849年度の風景画におけるローマ賞で二等であるにもかかわらず、なぜか留学資格が与えられた。しかし、風景画においては通常4年間のところ2年間しか認められなかった。 ナポリには10日間滞在し,ナポリ国立考古学博物館ではポンペイの出土品の展示室で古代彫刻のスケッチなどを行っている。この博物館には有名な「アレクサンドロス大王の戦い」のモザイクが所蔵されてある。


TITLE: ポンペイ 45


古代都市・ポンペイは紀元79年のヴェスヴィオ山の噴火で埋没したが、1748年に発見され、本格的な発掘は19世紀になってから行われるようになった。 現在、2割の発掘作業を残すのみである。 発掘を契機に古代文明への関心が高まり、ギリシャ・ローマ時代への憧れと官能的傾向をももつ華やかな芸術様式を復活させようとする新古典主義が生まれ、19世紀のアカデミスム芸術の基本原理となった。 ポンペイ旅行でウィリアムは大いに影響を受けることになる。



TITLE: ローマ 46


 通常、巨匠の油絵もしくはフレスコ作品の同サイズによる模写は四年目の課題であったが、美術アカデミーはウィリアムに対して、二年目にファルネジーナ邸のプシュケ回廊にある「クピドとプシュケの婚宴」のコピーを課したのであった。それは大画面でおまけに天井画であった。 ウィリアムの留学期間は三年と短いことから、師であり、アカデミシャンでもあったピコの助力で同邸にあるラファエッロの「ガラテアの勝利」〔1511年作、写真上)に変更される。ウィリアムに代わってその天井画を手がけたのはブーランジェであったが、結果は不評を買うことになる。


TITLE: アッシジ 47


 ローマとフィレンツェのほぼ中央に位置し、ウンブリア地方の丘の上に建ち、周囲を城壁に囲まれた中世の都市、アッシジ。イタリアの守護聖人、聖フランチェスコは1182年、この街に生まれた。 ウィリアムは、1852年5月中旬から10月上旬までイタリア北部の旅行にでかける。 アッシジでは4週間滞在している。 サン・フランチェスコ寺院では「清貧」「純粋」「従順」を戒律とし、ただ祈ることを教えとしたフランチェスコの生涯を描いたジョットの作品をコピーしている。



TITLE: フィレンツェ 48


 イタリア北部への旅行ではポール・ボドリーを含む数人のグループと行動を共にし、名所、旧跡、絵画を実に精力的に観て回った。ウィリアムはイタリア留学中に100を超える都市を訪ねている。 フィレンツェ;英語名はフローレンスで「花の都市」の意。ルネッサンスの発祥の地で、その時代は、全ヨーロッパの金融、織物業の中心地として栄えた。世界有数の美術館であるウフィッツィ美術館では多くの時間を費やし、ミケランジェロ、ラファエロの作品にふれている。



TITLE: ヴェネチア 49


大陸から4キロ、外海から2キロ離れた117の小島と、150以上の運河と400以上の
橋で結ばれた「水の都」、ヴェネチア(英語名;ベニス)。 中世期より諸外国との交易を通じて、北方後期ゴシック芸術の影響を受け、装飾性豊かな建築様式を発展させた。そしてその商業上の繁栄を背景に、ヴェネチア派が生まれた。 ウィリアムはヴェネチア派のなかではティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットに興味を示し、そのなかでも特に、ヴェロネーゼの色彩の輝きの秘密を、技術的に解明しようと試みる。


TITLE: ピサ 50


ピサはイタリアの北西部、フィレンツェの西70キロに位置し、トスカーナ地方北部の中心都市で、中世に栄えた海運都市国家。 ガリレオ・ガリレイが数々の実験を行ったドゥオモとそれに付属する斜塔は12世紀のピサ・ロマネスク様式の大聖堂である。 白い大理石の壁に囲まれた長方形のゴチック建築物、カンポサント(墓地)には、ウィリアムが訪ねた時代は内部に多くの素晴らしいフレスコ画、古代からルネッサンス時代にまで及ぶ彫刻が所蔵されてあった。ウィリアムは回廊壁画を飾っていた作品の中で特に「死の勝利」(作者は諸説有り)に惹きつけられる。


TITLE: ラヴェンナ 51


 ラヴェンナはヴェネティアの南約150キロに位置するエミーリア・ロマーニャ地方の都市。かつてはアドリア海に臨んでいた古代西ローマ帝国の都として栄えた。6世紀を最盛期にビザンチン美術の花開いた古都である。 ウィリアムはサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂や、サン・ヴィターレ教会、ガッラ・プラチーヂィア廟にて古代のモザイクをコピーしている。




TITLE: パルマ 52


エミーリア地方の都市;パルマ。16世紀にパルマのファルネーゼ家から出た法王パウルス3世がパルマ公国を樹立。18世紀にスペインのブルボン朝が支配し、19世紀にはオーストリアのマリア・ルイーザが統治するなど色々な文化が融合した芸術の都である。 コレッジョは主として、この地で活躍したと言われるほどに多くの作品を見ることができる。ウィリアムはこの地を訪ね、直に作品に触れることでこの画家の華麗で幻想的表現を評価することになる。



TITLE: シエナ 53


 シエナ: 12−14世紀にかけてフィレンツェと共にトスカーナ地方で最も栄えた都市国家。今でも町並みは中世の面影を残している。15世紀のルネッサンスの主流であるフィレンツェ派以前に,この都市を中心に抒情的な画風のシエナ派絵画が流行した。 ウィリアムはドゥオモ(大聖堂)内のピッコローミニ図書館にあるピントゥリッキオのフレスコ画や、シエナ国立絵画館にあるジョヴァン二・ディ・パオロ作「最後の審判」をコピーしている。



TITLE: ローマ 54


3年間の滞在しか認められていなかったウィりアムは、ローマに戻り、ローマ賞受賞者に課せられた最後の課題(実物大の人物、数人で構成する歴史画)に取り組む。 早い時期よりヴィラ・メディチ内の図書館で「聖人伝」を読みふけっていた彼は、主題にローマ教会の最も尊崇をあつめた殉教者の一人、聖チェチリアを取り上げる。 教皇ウルバヌス一世によって回心した許婚者、およびその弟と共に斬首された後、サン・カッリストのカタコンベへ運ばれるチェチリアを描いた。しかし、アカデミーから賞賛を受けた、この22人を配した縦3メートル44、横4メートル28の大画面を見ることはもはやできない。


TITLE: パリ 55


 ウィリアムは最後の課題を完成させるため、アカデミーより特別に3ヵ月の滞在延長が認められている。「殉教の勝利」はヴィラ・メディチ内で展示された後、パリへ送られた。 フランスへ帰国するため、4月20日にローマを発っている。家族が待つラ・ロシェルでの滞在期間、近郊のアングウランにある叔母の邸宅での装飾画の注文を受ける。

 



TITLE: アングウラン 56


 銀行家の夫を持つ叔母はウィリアムのこれからの生活を案じて、別荘の室内装飾の仕事を与える。その後、画家としての地歩を固めるべく、パリに上京するのである。しかしながら、ローマ賞を獲得することで将来が約束されるといわれていた時代だとはいえ、パリでの生活はアトリエを開校することから始まった。






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WILLIAM BOUGUEREAU

ローマ賞への道のり  画学生の夢


在ローマ・フランス・アカデミー(ヴィラ・メディチ)


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ブグロー家の系図




   暦は、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世により、グレゴリオ暦が制定されていたが、フランスにはフランス革命暦が存在する。グレゴリオ暦の1793年11月24日から1805年12月31日までの12年間と1871年のパリ・コミューン時のフランス独自の暦であり、表記は各月が文学的月名があてられ、日付もグレゴリオ暦とは異なる。当然この期間に作成された公文書は革命暦に準じていて、現在の暦に変換しなければならない。
  家系図を作成する上で、有用な戸籍簿に出生、死亡、結婚(民事婚)ごとの帳簿が役所にあり、それにカトリック圏特有の洗礼、結婚(教会婚)の帳簿を教会が保有している。古い年代のものは市や県の古文書館でマイクロフィルムにして保管されてある。尚、当時の人の歿年は死亡届が提出された市町村がわからなければ調べようがない。
  ブグロー家の家系を作成するにあたり、「bouguereau」の家名と配偶者の家名を辿っていくにつれ、ラ・ロシェルの有力者の一族、聖職者、政治家、海運業者との繋がりなどが見えてきたことがこの作業における収穫であった。




◎ブグローの本◎
『ウィリアム・ブグローの生涯』
マリウス・ヴァション 著/ 米永 輝彦 編訳 東洋出版⇒東洋出版HP


本書は、フランス外務省、在日フランス大使館および東京日仏学院の援助を 受け出版するものである

日本で初めてのブグロー研究書

カバー図版: イエス・キリストの笞刑図 (1880)
キャンバスに油彩 390×210cm
Copyright (C) Musee des Beaux-Arts a La Rochelle






『ウィリアム・ブグローの復権』  
米永輝彦




  《アカデミスムの再評価》

”理想”を追求した芸術的衝動


●うなぎ登りの人気 現在インターネット上で、19世紀後期アカデミスムの画家であるウィリア ム・ブグローの関連サイトの件数が数百にも上っている現象は、この画家に対 する関心の高さを物語るものである。

この数年、世界的にブグローの絵のポスターが近代美術のそれをしのぐほど 人気がでてきており、日本の業者もネット上で販売するようになってきた。

 また、世界的に有名な二大オークションであるサザビーズ、クリスティーズ においては、ブグローの作品の価格は近年、うなぎ登りに上がってきている。

 20年ほど前から米国を中心に、印象派以前にフランスの大衆から圧倒的支 持を得ていたアカデミスムの画家たちの再評価の動きが始まった。その理由は 、美術史において「革命の世紀」と言われる19世紀を振り返ってみると、伝 統と前衛という対立の構図があるものの、新しい流派を起こした画家たちもア カデミーの伝統的教育を受けていたことから、その教育制度を直視して美術史 をより系統立てる必要が生じてきたためである。

●熟練の高度な技術  半世紀もの長い間、忘れ去られていたアカデミスムの画家たちであったが、 彼らの熟練した高度な技術は他の流派の比ではない。  その作品全般にわたって、主題は曖昧で思想性に欠け、「芸術」の名のもと に扱われる彼らの裸婦像は通俗的と批判され、陳腐であるとの評価が下されて いた。しかし、ブグローの神話・寓話を扱った作品や宗教画・肖像画には、甘 い茶系色を生かしたトーンの展開の美しさに加えて、考え抜かれた構成のなか に色彩の妙があり、肌の表現は迫真に満ちている。これこそ「美の極致」と思 わせるその甘美な画風に人は酔いしれる。

 私のブグロー研究も既に14年を過ぎた。このほど「ウィリアム・ブグロー の生涯」(マリウス・ヴァション著、東洋出版)を編訳したが、私は何も一画 家の画業を著したかったのではない。私の研究は、彼がかたくなに守っていた 仕事に対する真摯な姿勢、幼年期より培われてきたキリスト教の教えからくる 神に対する敬虔な信仰が、彼の1200点もの膨大な作品一点一点に貫かれて いる、その驚きから出発している。

●神の偉大さの前で  神を崇拝し創造物を賛美し、歓喜するところから生まれる創作姿勢。ブグロ ーは、我々人間が神より多大な恩恵にあずかり生かされているという認識に立 って自然と対峙している。求めても求めてもただ神の偉大さを知らされるだけ であり、泉のほとりで喉を涸らすがごとく理想を追い求め、曖昧さを許さなか った画家なのである。美術史の謎とも思えるこの画家の過小評価も、視点を変 えるところから無視できない側面が見えてくるのではないだろうか。

 制作に対する純粋な芸術的衝動は、時代やスタイルに関係なく優れた作家な らば共有されていくものであろうし、ブグローのこの唯一の神への信仰こそが どの時代においても普遍的なものとして現代の我々に投げかけられているとい うことを、私はこの本の中で著したかったのである。 (西日本新聞掲載記事2001年6月14日)




1996年 ラ・ロシェル美術館企画展覧会ポスター
 
模写作品「イエス・キリストの笞刑図」ラ・ロシェル市へ寄贈 ラ・ロシェル市庁舎 所蔵 BIENVENUE SUR LE SITE DE BOUGUEREAU

ウィリアム・ブーグロー研究


ポスター図版:ウィリアム・ブグローの肖像
 米永輝彦 作 ラ・ロシェル市庁舎 所蔵






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ブグロー家のアルバム



 


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日本で見られるブグロー作品



◎展示作品名は図録に準ずる。
◎ブグローに関する情報お待ちしています。
特に日本で見られるブグロー作品は全てを把握することはできません。
  皆さんのご協力をお願いいたします。


○国立西洋美術館
東京都台東区上野公園7-7

・少女(1878)仏文タイトル:「La prière(祈り)」キャンバスに油彩 サイズ:45.5 X 38cm


















○静岡県立美術館
静岡市駿河区谷田53−2

・若い母親と子供(1878)仏文タイトル:「Le joies d'une mère(母の喜び)」キャンバスに油彩 サイズ:136 X 100.5cm
















○松岡美術館
  東京都港区白金台5−12−6

・編物をする少女(1874)仏文タイトル:「La petite tricoteuse(同)」キャンバスに油彩 サイズ:69 X 47.5cm


















○但陽信用金庫ギャラリー
 加古川市加古川溝之口539

・口づけ(1890)仏文タイトル:「Câlinerie(同)」キャンバスに油彩 サイズ:145 X 91cm 














・野の花香る昼食(1889)仏文タイトル:「Le goûter(おやつ)」キャンバスに油彩 サイズ:94 X 61cm














・花を摘む少女(1886)仏文タイトル:「Au bout de l'étang(池のほとりで)」キャンバスに油彩 サイズ:106.5 X 53cm
   
















○山寺後藤美術館
  山形市大字山寺2982−3

・愛しの小鳥(1867)仏文タイトル:「L'oiseau chéri(同)キャンバスに油彩 サイズ:87.5 X 69cm
















○東京富士美術館
 八王子市谷野町492−1

・漁師の娘(1872)仏文タイトル:「Pêcheuse(女漁師)」キャンバスに油彩 サイズ:144 X 87.5cm
    


















○村内美術館
   八王子市左入町787 村内 FA8階

・マクスウェル夫人の肖像 (1890)仏文タイトル:「Portrait de Mademoiselle Louise Bonynge(ルイーズ・ボニンジュ嬢の肖像)」キャンバスに油彩 サイズ:129 X 89cm











・モントロン侯爵夫人の肖像 (1864)仏文タイトル:「Portrait de Marie-Gabrielle Anne Marcotte de Quivière(マリ・ガブリエル・アンヌ・マルコット・ド・キヴィエール嬢の肖像)」キャンバスに油彩 サイズ:111.5 X 76cm



















○熊本県立美術館
 熊本市中央区二の丸2

・キューピッド(1860)*美術館表記 仏文タイトル:「L'Amour essayant ses fleches(1863)」キャンバスに油彩 サイズ:65 X 54cm














 
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19世紀フランスの精神的支柱


ウィリアム・ブグローの場合
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アトリエのブグロー



19世紀の版画 (下記の写真参照)

 
  

アトリエのブグロー(1885) 

       

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同時代の画家のアトリエ


カルロス・デュラン(1837-1917)
レオン・ボナ(1833-1922)
ギュスターヴ・ブランジェ(1824-1888)
アレクサンドル・カヴァネル(1823-1889)
フレデリック・レイトン(1830-1896)
アンリ・ジェルベックス(1852-1929)
ジャン・レオン・ジェローム(1824-1904)
ジャン・ジャック・エネール(1829-1905)
ジュル・ルフェーヴル(1836-1911)
ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(1824-1898
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925)
ジャン・バティスト・デタイユ(1847-1912)
アンリ・マチス(1869-1954)


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WILLIAM BOUGUEREAU

19世紀の美術学校


                       

Bouguereau in America!

After three quarters of a century in obscurity, all of the museums in the world that owned Bouguereau paintings, finally in the early 1980's realized what treasures they had. Today, over 100 museums around the world have placed Bouguereau paintings on permanent exhibit in their most prestigious galleries (at least those which had not been foolish enough to sell off their Bouguereau paintings earlier in the century when his work was being ridiculed and degraded by modernist pedagogues). Due to popular demand we have asked Damien Bartoli to create a list of Bouguerau paintings that can be readily seen at America's premiere art museums. It is not intended to be exhaustive, but it gives the tens of thousands of Bouguereau lovers who visit his galleries here on the Art Renewal Center, an easy way to plan itineraries and excursions to see the originals. There are scores of his paintings also in private collections, including 7 in the collection of our Chairman (Fred and Sherry Ross Collection). Musées U.S.
Frère et sœur bretons New York Metropolitan Museum, NYC, NY.
Le lever New York Metropolitan Museum, NYC, NY.
Séduction New York Metropolitan Museum, NYC, NY.
L'ange gardien NY Historical Society, NYC. USA
Portrait de M. Bishop, enfant NY Historical Society, NYC.
Le secret NY Historical Society, NYC.
Jeune fille allant à la fontaine Dahesh MoArt ; NYC, NY
Premières caresses Lyndhurst Collections, Tarrytown, NY.
La Madone aux roses Museum Jay Gould, Lyndhurst Castle, Tarrytown, NY.
L'Art et la Littérature Arnot Art Museum, Elmira, état de NY.
Portrait de Monsieur M. Norton Simon Museum of Art, Pasadena, CA.
La charité University of Michigan Museum of Art, Ann Arbor, MI.
La Paix The Saint Louis Art Museum, Saint Louis, Missouri.
Les remords d'Oreste The Chrysler Museum, Norfolk, Va.
La liseuse The Wadsworth Atheneum, Hartford, Ct
Méditation Syracuse University Art Collection, Syracuse.
Le vœu Philadelphia Museum of Arts, Philadelphia.
Jeune bergère Appleton Museum of Art, Florida University, Ocala, FL.
La petite fille aux yeux bleus The Snite Museum of Art, University of Notre Dame, Indiana.
Tricoteuse Joslyn Art Museum, Omaha, Nebraska.
Faneuse Carnegie Museum of Art, Pittsburgh, PA.
La sœur aînée Museum of Fine Arts, Houston, Tx.
L'Italienne à la fontaine The Nelson-Atkins Museum of Art, Kansas City, MO.
L'amour fraternel Boston Museum of Fine Arts, Boston.
Bergère Museum of Fine Arts, Springfield, Ma.
Nymphes et Satyre Clark Art Institute Museum, Williamstown, Massachusetts
Baigneuse accroupie The Clark Art Institute, Williamstown, Ma.
La bourrique The Berkshire Museum, Pittsfield, Ma.
L'agneau nouveau-né The Berkshire Museum, Pittsfield, Massachusetts.
Homère et son guide Layton Art Collection, Milwaukee Art Museum.
Enfant à la tasse de lait Cincinnati Art Museum, Cincinnati, OH.
La nymphée Pioneer and Haggin Gallery, Stockton, Ca
Promenade à âne Cummer Art Gallery of Art, Jacksonville, Fl
Tricoteuse Appleton Museum of Art, Florida University, Ocala, FL.
Le repos The Cleveland Museum of Art, Cleveland, Oh
La tentation The Minneapolis Institute of Arts, Minneapolis.
La Vierge aux anges Museum at Forest Lawn Memorial-Park, Glendale, Ca
Gardeuse de moutons Frye Art Museum, Seatle, WA.
La Vierge, Jésus et Saint Jean Baptiste H. Johnson Museum of Art,
Cornell University, Ithaca, NY.
Les noisettes Detroit Institute of Arts, Detroit.
La Nuit Hillwood Museum, Washington, DC.
Les deux baigneuses The Art Institute of Chicago, Illinois.
Méditation Joslyn Museum of Art, Omaha, Nebraska.
Jeune bergère San Diego Museum of Art, San Diego, CA.
Le printemps Joslyn Museum of Art, Omaha, Nebraska.
Petite fille assise au bord de l'eau Horace C. Henry Art Gallery, University of Washington, Seattle.
Au pied de la falaise Brooks Museum, Memphis, TN.
Petite boudeuse Rahr - West Museum, Manitowoc, Wisconsin.
Première rêverie The New Orleans Museum of Arts, New Orleans, La Pastourelle The Philbrook Museum of Art, Tulsa, Ok
Bohémienne The Minneapolis Institute of Arts, Minneapolis, Mn
Petites mendiantes Syracuse University Art Collection, Syracuse, NY.
Les mûres Saint Johnsbury Atheneum, Vermont.
La cruche cassée Fine Arts Museum of San Francisco, CA.
Gardeuse d'oies H. Johnson Museum of Art, Cornell University, Ithaca, NY.
L'abri UCLA Hammer Museum of Art, Los Angeles, CA
Le travail interrompu Mead Art Museum, Amherst College, Amherst, Ma Le chant du rossignol The Dayton Art Institute, Dayton, Ohio.
Souvenir The Carnegie Museum of Art, Pittsburgh ; Pa
Portrait de la Comtesse de Cambacérès The Seattle Art Museum, Seattle.
Sur la grève The Detroit Institute of Art, Detroit.
Une vocation The Cleveland Museum of Art, Cleveland, Oh.
Réflexion Mabee - Gerrer Museum, Shawnee, Oklahoma.
L'admiration San Antonio Museum of Art, San Antonio, Texas.
Inspiration Museum of Art & Science, Columbus, Georgia.
La révérence The Arkansas Arts Center, Little Rock, Arkansas.
Idylle enfantine Denver Art Museum, Denver.
Tendres propos The Cornell Fine Arts Museum at Rollins College, Winter Park, Fl.
L'Amour s'envole Frye Art Museum, Seattle, WA.
Le jeune frère Virginia Museum of Art, Richmond, VA.
Jeune prêtresse Memorial Art Center, University of Rochester, Ny
Le glaïeul Mobile Museum of Art, Mobile, Alabama.


日本での展覧会と展示作品

1925年
 「仏蘭西現代美術展覧会」   ・浴後(1875)
1928年
 「仏蘭西現代美術展覧会」   ・青春と愛(1877)
1971年
 「ボルドー美術館展」     ・バッカイ(1862)
        1979年
 「ボストン美術館展」     ・兄弟愛(1851)
        1977年
 「十九世紀 ヨーロッパ伝統絵画とステンドグラス展」  絵本を見る幼子(1871)
1982年
 「明治15年・パリ」     ・母と子(1879)
1983年
 「フランス絵画の黎明」    ・素足の女(1879)・少女(1878)
1983年
 「ボルドー美術館展」     ・バッカイ(1862)
1983年
 「1880年代のパリ画壇展」 ・母と子(1879)
1985年
 「親と子で見るフランス名画展」・少女(1878)
1989年
 「ボストン美術館展」     ・兄弟愛(1851)
1989年
 「フランス絵画の精華」    ・フローラとゼフュロス(1875)・青春とアムール(1877)
1989年
 「19世紀ローマ賞絵画」   ・アラクス川岸で牧人たちに発見されるゼノビア(1850)
1989年
 「デトロイト美術館展」    ・木の実を集める少女たち(1882)
1990年
 「アルゼンチン国立美術館展」 ・ヴィーナスの化粧(1873)
1990年
 「名作に見る世界の子供たち展」・少女(1878)
1991年
 「ゴヤからマチスまで」    ・牧歌(1860)
1992年
 「近世フランス絵画展」    ・アルカデイアの牧人たちの時代の秋(1855)
1992年
 「サンフランシスコ美術館名品展」・壊れた水瓶(1891)
1993年
 「葡萄とワインの美術」    ・秋の情景(1855)
1993年
 「フランス絵画の400年展」 ・恋人たちのささやき(1889)
1993年
 「プリミティヴィズムの系譜」 ・耳飾りをする女性(1891)
   1994年
「印象派とフランス近代絵画の系譜」 ・貧しい母子(1865)・無垢(1898) 1994年
 「フランスの肖像展」     ・デセリ二ー夫人の肖像(1877)
1994年
 「西洋の人間像1850−1950」・祈り(1867)
1994年
 「1874年ーパリ」     ・ホメロスと導き手(1874)
1996年
 「栄光の近代絵画150年の歩み展」・秋の情景(1855)
1996年
 「印象派はこうして生まれた」 ・アラクス川岸で牧人たちに発見されるゼノビア(1850)
1997年
 「ヨーロッパ・アカデミー絵画展」・ヴィーナスとキューピット(1904)・若い女性の肖像(1898)
1997年
 「アルザスとフランス近代美術の歩み」・慰めの聖母(1877)
1997年
  「揺れる女/揺らぐイメージ展」・音楽(1855−1856)・首飾り(1891)
         2000年
 「ボルドー美術館展」     ・死者の日(1859)
2001年
 「女性美の500年」     ・漁師の娘(1872)・聖母マリアに祈る若い母親 (1865)
2002年
「聖母子と子供たち展」 ・美しいブルネットの肖像(1898)・ヴィーナスとキューピット(1904)
2004年
 「ドラクロワからムンクまで」(19世紀ヨーロッパ絵画の視点)・兄弟愛(1851)
2004年
 「万国博覧会の美術展」 ・青春とアムール(1877) 
2013年
 「奇跡のクラーク・コレクション展」 ・座る裸婦(1884)
2019年
 「フランス絵画の精華」・死者の日(1859)・バッカイ(1862)・青春とアムール(1877)
2023年
 「もうひとつの19世紀  ブグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」・ガブリエット・コットの肖像(1890)・クビトの懲罰(1856) ・音楽(1856)・武器の返却を懇願するクビト(1856)・純潔(1893)・姉妹(1887)・小川のほとり(1875)・少女(1878)


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WILLIAM BOUGUEREAU

ブグローの周辺

 
ブグローの相関図




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WILLIAM BOUGUEREAU

19世紀の展覧会  サロン







  過去の掲示板の書き込み (抜粋)




投稿者:米永 輝彦 2001/05/06 17:00:37 拙著 『ウイリアム・ブグローの生涯』 お詫びと訂正 カバー袖  苔刑図→笞刑図 p159     〃 p69   ヴァンサン・ドゥ・ポール教会       →サン・ヴァンサン・ドゥ・ポール教会

投稿者:堀澤光栄 2001/08/16 18:19:1 姫路でのブグロー展示の件、 1997年5月に開催した「ストラスブール近代美術館展」 ?27.「慰めの聖母」1877、が出品されております。 そのことでしょうか。 姫路市立美術館 堀澤光栄

投稿者:堀澤光栄 2001/08/16 18:27:27 昨年となると思い当たりませんがもしかして 当市の森画廊がアカデミズムの作家を扱います。 森画廊 0792-81-8377 問い合わせてみてはいかがでしょうか。

投稿者:みわ 2001/08/24 16:17:29 Primo bacioという絵がとても好きです どこに所蔵されているかご存知ですか?
投稿者:米永輝彦 2001/08/25 20:48:5 ファーストキスの意味で各国語に訳されていますが本当のタイトルは”愛の妖精とプシュケ、子供たち”です。キャンバスには1890と記されていますが実際には89年の作になります。個人蔵です。ご質問有難うございました。 Primo bacio

投稿者:三村 2001/09/13 04:34:14 僕は、ブーグローの絵を見て、今の美術界に足りないのはこのクオリティーだと感じました。 今、去年からデッサンの勉強をはじめ、今も続けていますが、ブーグローの絵ようなマチエールは、どのように作るのかわかりません。 どのくらいの行程を経てあのような画面ができあがるのが教えていただけませんか? 褐色の下書きなど、他の古典主義の画家のようなことをしているのでしょうか?

投稿者:米永輝彦 2001/09/13 18:16:50 ある着想に基ずき構想を練るために膨大なクロッキーを行い、各部分 の細かいデッサン、使用するキャンバスと同サイズの紙でのデッサン 、小キャンバスにグリザーユのエスキース、小キャンバスでの各部分 の精密な彩画を経て本制作に取り掛かる。案がまとまらねばそのテー マは数年もの間熟考されることさえあった。ブグローは好奇心旺盛で 色んな事から着想を得、毎日毎日構想を練ることを習慣としていたか ら彼のカルトンはデッサンでいつも一杯であった。人生をアトリエで 過ごしたといわれるほど一生を絵に専念した画家だからこそ技術的に も堅牢なマチエールを作り得たのです。絶え間ない研究の成果なので す。ブグローは下塗りとして灰褐色を2,3層重ね、本制作ではグリ ザーユ描法はやらずに描きき始めている。しかし、技術というものは その画家の意思が反映されていることを忘れてはいけません。やみく もに技術を模倣すればいいと言うわけではありません。十人十色異な る技術があって当然なのもそういう理由からです。 日本の美人画の画家など写真に忠実に創意工夫もなく小奇麗にまとめ あげたものが世界の巨匠の作品以上に値がつく現象にはただただ呆れ るばかりです。日本のある有名な評論家が多分有名な絵描きにあるも のをモチーフに描いてもらおうと依頼したら、その絵描きは写真がな いと描けないと答えたそうです。仕事への取り組み方が全くちがいます。

投稿者:三村 2001/09/14 03:59:42 ありがとうございます。 先生のおっしゃる通りだとおもいます。 僕も最近、画廊でかなりの写実的な絵を見ましたが、ほんと構図やモチーフの設定などもただの写真と変わらないと思いました。ただ、モデルを壁の前に立たせていたり、ガスボンベをはめさせたりと、美大予備校生の発想と大差のないようなものでした。 ブーグローの絵は、非常に簡単な表現になってしまいますが、ロマンというかそういうものがあると思います。僕がクオリティーというのは、そういう作品に対する完璧なこだわりというか責任というかそういうものも含まれています。 もちろん、今、新しく作品を描くならば、当時のアカデミズムの主題をただ模倣するのではなく、現代性といったものも必要なのですが。

投稿者:米永輝彦 2001/09/14 18:38:43 世界の巨匠たちの作品をとにかくたくさん観ることをお勧めします。 ありがとうございます

投稿者:アルチザン 2001/11/27 02:00:38 はじめまして。 ブーグローの絵についてお聞きしたいのですが、光臨というか後光というかが書かれている絵がありますが、あれは絵なのでしょうか?それとも金箔が張ってあるのでしょうか?突然の質問ですいません。

投稿者:米永輝彦 2001/11/27 23:31:24 1850年代に制作した蝋画のなかにはバックを金箔で貼ったものがありますが、宗教画のなかに見られる光輪(後光)はむしろキャンバス地をつぶした滑らかな面におつゆをかけたマチエールと取り巻く色調とのコントラストで引き立てているようです。

投稿者:豚珍勘 2002/03/01 13:32:58 先生はブグローの何に感動したのでしょうか、先生がこれ程にほれているのは何なんでしょうか。 僕には彼の良さが理解できません。 彼の作品の見所を教えて下さい。

投稿者:米永輝彦 2002/03/03 06:22:42 私が着目するのは絵の美しさとか画風ではなくこの画家の生き方です。線やタッチに見られる画家の意識の軌跡を観察すると生半可な態度では取り組んでいないことがお判り頂けるでしょう。(直に見ないとわかりませんが)とくに肌の表現においては、まさに天才とは長き忍耐なりです。それはこの画家の意識形成に影響を与えたであろう幼少の頃より培われてきたキリスト教の教えが無視できなくなります。神を賛美し、森羅万象に歓喜し、仕事に喜びを感じ、与えられた人生に感謝し、身も心も神に委ねる姿勢を生涯貫いた画家であり、作品の完璧さはその結果からくる職業的技巧であるという点が私を惹きつけるのです。

投稿者:豚珍勘 2002/03/04 13:37:21 有難うございました。 もう一つ質問ですが、どうしてブーグローは、セザンヌ達の印象派画家をサロンで落選させたのでしょうか。

投稿者:米永輝彦 2002/03/19 13:58:48 ルネッサンスの旧態依然の美学を賛美し、物語的構成や素描に重点を置く伝統的手法を重んじていたアカデミーサイドにとって、主題は無く事物の存在感よりモチーフにあたる光が起こす現象を直感的また感覚的に自由奔放なタッチで表現するため未完成ともとれる印象派の絵に価値を見出せなかったのです。評価する尺度が違うのでこの革新的印象派の出現を「フランス美術における不名誉」として拒絶していったのです。

投稿者:神田敦巳 2002/03/19 14:09:58 貴殿の本、大変勉強になりました。古典絵画について色々 質問させて頂きます。どの様な地にどの溶剤で描けばあの様なマチエールに仕上がるか知りたい訳です。初めに地から作って行くと思いますが、キャンバス地に膠を何層か重ねて、それから、白亜地を何層か重ねてで仕上げると思うのですが。それと溶剤はどんな種類のものを混合して描いたのか解説して頂けたら勉強になるんですが。アングルなんかも手作りキャンバスを使用してたと聞きましたが、フーグローとは又違うのでしょうか?それとフランドルの絵描きですがシャルル・メルテンスという画家がいますが、アントウエルペンの伝統絵画もご存知でしたらお教え頂ければ勉強になるのですが。宜しくお願いします。

投稿者:米永輝彦 2002/03/20 18:37:4 正直、技術に関する質問には閉口します。巨匠がどのような画材を使い、どのように描いたかを知ったところで偉大な作品に肩を並べられる作品ができるわけがありません。コピーが目的ですか?興味を持った画家がいればその画家の真の偉大さ、豊かさが技術的なものからきているのではないことを知るべきです。技術があって偉大な作品が生まれるのではなく、大きな理想を掲げ、それを表現するために自分の技術が生まれてくるのではないでしょうか------- ブグローの技術に関する多くのノートが残されてますが、毎回、同じ方法をとっていたわけではありません。絶えず試行錯誤を繰り返しています。○布は大きなキャンバスにおいても意外と目の細かいものを使用しています。(10を参照)○溶油において注目されるのは保護用二スと混ぜていたことです。その頻度は定かではありません。当時のものと大量生産の現代では品質や成分が異なることを忘れてはいけません。フランドル絵画においては十分な認識がありません。

投稿者:坂本 2002/03/28 16:29:24 前に何度も同じような質問があったかもしれませんが、 質問させてください。 私はブグローの絵が好きで、画集が欲しいと思っている のですが、手に入れられる方法はありますでしょうか。 いろいろ探したのですが、見つけられませんでした。 ご存知でしたら、是非教えていただけないでしょうか。

投稿者:米永輝彦 2002/03/28 23:38:2 タイトル:Bouguereau 著者:Fronia E. Wissman 出版社:Pomegranate 大手の書店で入手可能。尚、この出版社から毎年、ブグローのカレンダーが出てます。

投稿者:坂本健一 2002/04/03 04:20:33 私は、子供の頃教科書に小さく載っていたヒ゛-ナスの誕生を見た時からこの画家のファンでした。それから1992年のサンフランシスコ美術館展が東京都美術館にきたとき、壊れた水瓶と、愛にはむかう少女のテ゛ッサンを見て、胸を打たれ模写を始めましたが(本物は高くって買えそうにないですよね!!)、50号にサイス゛を落としてもかなりの時間がかかります。米永先生は、模写をどの位でで書き上げられるのですか?何か速く書きあげるコツはあるのでしょうか?bougereauは早筆多作と聞いているのですが、何層も重ね塗りしているところがホ゜イントとして多いように思います、そんなに早かったのでしょうか?教えてください。今、innocence1893を1年かけて40%位の上がりです。その他にフ゜シュケの誘拐1895(20%かな?)が途中で眠っています。これらの作品をホ゜スタ-やシ゛ク゛ソ-ハ゜ス゛ルを参考にしているのですが細かい筆使いや色などわからないことだらけです。これらの作品について何かいいアト゛ハ゛イスありましたら教えてください。 ゆくゆくは、ハ゛ッコスの祭典を目指して模写をがんばります!!

投稿者:米永輝彦 2002/04/18 08:59:22 人に教授できる立場ではありませんが、何もそっくりに写し取る必要も無いでしょうが、確固たる目的意識をもつことが大切です。ただ画面だけを見るのではなく、巨匠の見つめる対象をも見る気持で、どのようにとらえているかを見て取ることが勉強になると思います。どれだけの時間がかかるかは問題ではなく、何かを学び取るまで腰を据えて取り組む姿勢が肝要です。ただ模写をしていると描けた気分になってしまうものです。何層も重ねられた絵具の上っ面だけを見て、下の層の段階的な作業を見なければ表面的な手際のよさだけの模写になる危険があります。それには本物に触れ目を肥やしていくことが必要になってきます。

投稿者:米永輝彦 2002/04/20 12:07:30 絵を描く者にとっては、本末転倒と思える、本質的なことより技術的なことに,どうしても目が向いてしまいます。それはむしろ自然な関心事でありますから、追々紹介していこうと思います。

投稿者:坂本健一 2002/04/23 04:39:30 私のつたない質問にお答え頂きありがとうございました。以前の何方かからのお答えに対して、「技術的なことには、何も言えない。」と、お答えなさっていたのを読み返し、『なんてバカな事を聞いてしまったのか!』と後悔していました。本当にありがとうございます。このWEBを見つけたときは、本当に、他にもこんなにBOUGEREAWのことを、深く重んじている方がいるのかと、嬉しかったので・・・つい。ですが先生のおっしゃる様に現物を目の前にして模写を出来る機会などなく、せいぜい日本に来た展覧会を漁り、ORSEYで現物の前でウットリして帰りの飛行機に乗り遅れるような奴には、ポスターが関の山です。作者の人柄については子供好きで、妻と子を出産時になくし、モデルはイタリア人を好んで使い・・・もっと話が出来る方に会えればと思っています。米永先生はどの様にして現物を前に模写を出来るような道に進んだのですか?差し支えなかったら教えてください。

投稿者:米永輝彦 2002/04/24 23:53:10 トップページの写真のせいでしょうか、私の研究が、技術的なものといった印象を与えているようですが、2点の肖像画は模写ではありません。ポートレートの写真を”利用”しました。  ご質問は模写をするための手続きのことですか?所有者もしくは施設管理者へ文書で許可依頼をします。一般的条件として、オリジナルと異なるサイズのキャンバスの使用、鑑賞者の邪魔にならないこと、それに時間や期間の制約があります。  尚、最初の妻と3男は出産した翌年に亡くなっています。

投稿者:坂本健一 2002/05/01 03:26:48 私は、何か勘違いをしていたんでしょうか?米永先生は、画家であると決め付けていたようですね。トッフ゜ヘ゜-シ゛での写真を見てBOUGUEREAU好きの画家であるのかと。  肖像画が、模写でないことは、タッチが違うので模写ではないとわかりますし、構図もBOUGUEREAUらしくないですから。  私が、先の質問で知りたかったのは、意気込みと言うか、生き方と言うか。普通の仕事をしていて美術館で、模写を申請して、1〜2週間も海外へ行くのは、かなりの覚悟がいりますし、生活が不安になるので、なかなか出来ることではありません。まして、模写の過程を、来館者の目にさらされながらするのは、かなりの勇気が要ります。それらについて、米永先生は、どうクリアしていらっしゃるのかが知りたかったのですが。  髪の毛のタッチや翼などの本当に神業としか言えない筆使いや、あの淡い肌の色使い、表情などは、やはり本物に限りますよね。模写が出来る米永先生がとても羨ましいです。

投稿者:★かりん☆ 2002/05/03 02:59:56 素晴らしいHPですね!私は大学4回なので今ゼミに入っており、ルネ・マグリットと岡本太郎の研究(研究というほどのものではありませんが)を始めています。 現代アートやシュルレアリスムが好きで興味があるのです。ジャンルは違いますが、研究方法など参考にさせていただこうと思います。ご自分で絵をお書きになることもあるのですか??

投稿者:文句垂名菓子 2002/05/05 03:26:57 BOUGUEREAUの時代には写真の技術が普及し始めた時期にあり、アルフォンス・ミュシャやマック・フィ−ルド・パリッシュの様に写真を元に絵を構成していった画家(挿絵画家)も同年期には多くいた。その一方でBouguereauをはじめ,frederic- LEIGHTON.jsan-leon GEROME .paul DELAROCHE等の様にデッサンを元に画面を構成していった画家達がサロンの主流となっていた。それら画家達の画面を比べてみると明らかに重みと言うか、気迫、圧力に差がある。どちらが良いかは何とも言えないが、何故、現代になるまで印象派が重視され、これらの画家達が敬遠されてきたのかが、全く不思議である。確かにあまりニコラ・プ−サンのような哲学的思考は画面の中には乏しいが(BOUGUEREAUは特に)それを言えばRUBENSも大差ない気がするのは私だけなのか?何も死や不条理ばかりを画面に現すだけが芸術でなくてもいいと思うのはいけないのか。でも近代の商業画家達は、たくさんの新作を出すことに気をとられクオリティ-を忘れているように思う。あれは、絵画とみなせない!と声を大にして言いたいもんだ。手抜きのし放題だ!

投稿者:つたないものですが 2002/05/17 02:07:43 もう、BOUGUEREAUを好きな方はご存知かもしれませんが、WEBヘ゜-シ゛のご紹介です。  海外のヘ゜-シ゛には、とても多くのBOUGUEREAUの絵を観るヘ゜-シ゛があるのですが、ここは一番かと思います。 テ゛-タ-も大きく、膨大の絵が網羅されています。他の画家のテ゛-タも見切れないほど。ロマン主義、新古典主義の画家達の全てがここにあり!!と言う感じです。是非ご覧あれ!    http://www.artrenewal/museam  入り方は、少し面倒ですが、このやり方でやってみて下さい。  1)yahooなどの検索サイトで、海外の検索サイトへ 飛んで下さい。(yahoo usa,yahoo french な ど) 2)Artrewalで検索して下さい。  3)arc image archves を検索結果の中からクリックして  下さい。 これで B の欄でBOUGUEREAUの名前を探せばOKです。   お試しあれ!!   もっと楽な入り方があればお知らせを!! 

投稿者:米永輝彦 2002/05/17 20:09:53 1年前よりブグローを紹介しています。画像が充実してきました。The Bouguereau Committeeを主宰するFred Ross氏が編集していますが、伝記(英訳された内容に本人は不満)を載せているDamien Bartoliは私の友人で、共同研究者です。現在、カタログ・レゾネ(総作品目録)の執筆にあたり共に意見を交換しています。 『一度ご覧あれ!!』の追加です。

投稿者:つたないものですが 2002/05/17 02:33:08 「一度、ご覧あれ』の追加です。 art renewal のヘ゜-シ゛についたら、上部メニュウの HOMEまたは、MUSEUMをクリックして下さい。

投稿者:坂本健一 2002/05/27 13:45:05 米永先生に教えていただきたい事が出来たので、書き込みさせて頂きます。  BOUGUEREAUの絵の中にフ゜シュケの誘拐の主題の絵が何点かあると思うのですが、BERUNINIの彫刻「PULTO AND PROSERPINA,DETAILS.」のような構図の絵があったように思うのですが、どの本にも、はがきにも見当たりません。サイトでは、この主題のものは、2点見受けられますが、それ以外でもあるのでしょうか。ありましたら、どうしたら見られるか、又、所在地なども判りましたら教えて下さい。  それと、アポロンとタ゛プネの神話を主題としたBOUGUEREAUの絵や、聖書のルツ説を題材とした絵はあるのでしょうか。  ご存知でしたら教えて下さい。

投稿者:米永輝彦 2002/06/01 18:05:28 ASCRのサイトでは紹介されてませんが、1899年作の「プシュケとアムール(愛の精)」があります。所蔵先は不明。  「ルツ記」と「アポロンとダフネの恋物語」の主題の作品はありませんが、ボルドーのグラン・テアトルに「アポロンとミューズたち」という天井画があります。  (DETAIL=ディテール、細部の意味です) ○以前の質問に答えて  各人の境遇は異なりますが、今、何をする事が必要なのかがわかっていれば生活面で工夫もするし、信念を持って何か事をなそうとする時、人の眼は気にならないものです。

投稿者:坂本健一 2002/06/03 11:49:09 お答えいただき有難うございます。  以前かなり昔のBOUGUEREAUの画集らしきものを見せてもらったことがあります。フォトグラビュ-ルで構成されていました。それに載っていて、以来気にかけて見ているのですが、今編集に携わっているというレゾネには、掲載される予定はあるのでしょうか。  又、BOUGUEREAUは、版画のためのデッサンを残していると思うのですが、版画は出版されていて、今も入手できる可能性はあるのでしょうか。ご存知でしたら、教えて下さい。お忙しいとは思いますが宜しくお願いいたします。

投稿者:米永輝彦 2002/06/03 23:05:17 白黒写真は、早い時期に完成の域に至っていますが、アクアチント・フォトグラヴュールの発明される19世紀末までは、サロンに出品され、注目された作品などは、版画家の手によるコピー(デッサン)が美術雑誌などで紹介されていました。「版画のためのデッサン」とはこのことでしょうか?確かにすばらしい”作品”も見うけられますが、画家の手によるものではありません。  カタログ・レゾネはその性格上、判明している全ての作品を網羅したものになるはずです。

投稿者:坂本健一 2002/06/04 11:08:57 私の解釈が間違っていたのかもしれませんが、サンフランシスコ美術館点1992で、「愛にはむかう少女」の木炭画が出展されていて、その解説に、「これは、本作品の完成後に、版画用として改めて描かれたものであろう」との記述があり、勝手に、きっと版画が本人監修のもとに創られたんだと、思ったからです。そのほかに、オウロラの絵もデッサン画があり、きっとそれも、その為に創られたのだと思い込んだからです。  先に触れられている、カタログレゾネは、いつ頃完成予定なのでしょうか。是非購入したいと考えているのですが、価格はどれくらいの設定となっているのか 決まっていたら教えて下さい。  レゾネ作成は、大変な御苦労がある事と思います。 すばらしいレゾネの完成を、首を長くしながらお祈りしております。
投稿者:葵雫 2002/06/12 17:59:13 Adolphe-William Bouguereauの作品「The First Kiss」 の現在、展示または保管されているところを探しています。 どなたか教えて頂けないでしょうか。 <
br> 投稿者:坂本健一 2002/06/13 01:57:02 個人蔵の作品について、詳しく所有者名や所在名などを調べる方法はあるのでしょうか?  フェルメ-ルの作品を海外の美術館で見ていたら、研究員らしき人がリストをくれたと言う人がいたのですが、日本では、全くだめでした。  どのようにしたら個人蔵の作品を見られるでしょうか?  日本にも、BOUGUEREAUの作品を所有している個人が何名かいると聞いているのですが、その方たちとコンタクトをとる方法はありますか?

投稿者:米永輝彦 2002/06/15 13:17:06 以前にも「The first kiss」について、同じ質問がありましたが、個人蔵です。  個人蔵の作品は、常識的に言っても、個人レベルでは見れません。コレクターの立場にたってみればわかる事ですが、色々なリスクが伴うという事です。それに、紹介する側にも責任がかかってきます。

投稿者:hiroyuki 2002/07/25 18:20:20 はじめまして、わたしは画家を目指しているものです。ブーグローやジェロームやカバネルなど非常に卓越したデッサン力と技術力を兼ね備えているのですが、大体一つのタブローを制作するにどのくらい時間がかかるものですか。よろしければ教えてください。あれだけの力がほしいものです。

投稿者:米永輝彦 2002/07/28 16:10:18 ○研究動機については、インタビュー欄を見てください。 ○完成までの日数は具体的にはわかりません。絶えず数点の絵を同時に手がけていて、それに加え、新たな作品構想を練ることを日課としていました。注文が入っても、その事だけに専念する事はなく、大作は数年を要し、あくまで自分の制作方法を貫いたからこそ、毎年20点前後の作品が生まれたといえるでしょう。因みに「ヴィーナスの誕生」が完成した1879年は、23点。顔の習作を8時間で仕上げたという資料があります。

投稿者:hiroyuki 2002/07/28 16:40:45 勉強になりました。あれだけ美しくて、重みのある作品を創る時間としては驚異的な速さですね。少し凹みました。やはり西洋絵画の長い歴史はほんとに偉大だなとおもいました。素描が見たいです。

投稿者:豚珍勘 2002/08/18 05:41:25 ブグローに関する文章がありましたのでご報告します。 「言語都市・巴里」和田博文等著、藤原書店、ISBN4-89434-278-2 \3800。 p。89の西洋美術史研究家の岩村透に関する章の中で、「当時のアカデミー・ジュリアンはフォブルグ・サン・ドニ街の48番地にあったという。 ここが本拠で他にサン・トノレ街やフォンタンヌ街など五箇所に教室があったとされるが、その頃の教授陣ではジュール・ルフェーヴル、バンジャマン・コンスタン、アドルフ・ブグロー、ガブリエル・フェリエー、ロベール・フレアリーなどがいて、彫刻ではシャピエーが教えていた。 入学手続きはただ月謝を前納して指導教授を選べばよいという簡単なものである。 岩村は60歳を越えたブグローと大分若いフェリエーに師事した。」   なおP.88には「岩村が芋洗生の名で著した『巴里の美術学生』(画報社、1903年)は、もと『ニ六新報』紙上に前年の3月19日から5月7日まで連載された」と書かれております。  ついでながら僕が最近読んで満足した本をご紹介します。 「パリ風俗史」アンドレ・ヴェルノ著、講談社学術文庫1405、\1200。 もう一つは、まるっきり世界が違って「日本の刑務所」菊田幸一著、岩波新書794、\700。  質問なのですが、最初に挙げた本の中でも、明治時代からいかに多くの画家(芸術家)が渡仏し、勉強しました。 一方、同時に、人の話では「世界的に通用する日本人はフジタしかいない」とも聞きました。 日本人は工業技術では世界トップ・レベルになったのに、なぜ絵画(芸術)だけは今だに一流国になれないのでしょうか? 先生はこの考え方をどう思いますか、もしご同意なさるなら、その理由は?その解決策は? 宜しくお願いします。

投稿者:夢月夜 2002/10/30 08:38:46 はじめまして。ドリアンさんのページの米永様の書き込みを読んでこちらへ来ました。 昨年 友人がメールに添付してくれた「プシュケの誘拐」がきっかけで ブーグローを知りました。 絵画に関する知識はないのですが 絵の雰囲気が好きで ブーグローファンになりました。 ネットでしか作品を見たことがないのが残念ですが、 11月に横浜そごう美術館で 2点観られるようですね。 ぜひ行きたいと思っております。 また掲示板を読ませていただいたところ 画集もあるとのこと、 米永様の「ウィリアム ブグローの生涯」と合わせて購入したいと思っています。 画家の一生ということではなく ひとりの人間がどのように生きたのかということに興味を覚えました。 過去の掲示板にありました米永様の書き込みの 『幼少の頃より培われてきたキリスト教の教えが無視できなくなります。 神を賛美し、森羅万象に歓喜し、仕事に喜びを感じ、与えられた人生に感謝し、 身も心も神に委ねる姿勢を生涯貫いた画家であり』 ということにも強く惹かれました。

投稿者:米永輝彦 2002/11/02 10:07:37 書き込み有難うございました。1999年度版はハードカバー、1996年度版はペーパーバック(廉価版でソフトカバー)です。ブグローの子孫からソフトカバーのものをプレゼントされ持ってますが、ハードカバーのものは手にした事がありません。恐らく内容は変わらないでしょう。(内容はともかく、綺麗な図版が載ってます)通常、廉価版は後に出るものですが・・・。出版社であるPomegranateから毎年ブグローのカレンダーが出てましたが、なぜか来年度版はありません。尚、カタログレゾネの出版は2004年以降の予定です。

投稿者:夢月夜 2002/12/20 12:25:21 横浜での「聖母子と子供たち展」を観てきました。ヴィーナスが幼いキューピッドを背負っている大きな絵を遠くから見て、すぐにブグローだとわかりました。キューピッドが背負われている姿を描いた画家は他にいるのでしょうか?ちょっとびっくりしましたが ほほえましい絵だと思いました。 画集も届きました。本当に美しい絵ばかりですね。絵葉書は版元で品切れとのこと、気長に待つことにしました。 折りしもイタリア旅行をしてきた友人からのおみやげが「ファースト キス」の小さな額絵でした。イタリアでは あちこちでこの絵を目にしたと言っていました。 米永様の著書は 今大事に読んでいます。電車の中などではなく、落ち着いて読みたいと思っていますので なかなか時間がとれませんが、いい本に出会えたと思っています。

投稿者:米永輝彦 2003/01/04 22:56:00 3日未明、フランスのロレーヌ地方を襲った強風によって、リュネヴィル市にあるリュネヴィル城で火災が発生した。ロレーヌ地方のヴェルサイユと言われるこの城の大部分が火に包まれた。まだ被害の詳細は判らぬが、ブグロー作品「殉教の勝利(1854)」と「青春とアムール(1877)」を所蔵している。

投稿者:クチュリエ 2004/05/18 04:44:36 今、名古屋ボストン美術館で「ドラクロアからムンクまで」という展覧会がやっていますが、その中にブーグローの25才頃の作品『兄弟愛』が出展されています。9月12日まで開催されています。 ブーグロー以外でも、レイトン、アルマ・タデマ、バーン・ジョーンズなどのイギリスの作家の作品も少しですが出展されています。 あと、もう終わってしまったのですが、愛知県の岡崎美術博物館でも「流転するバロック」という展覧会にブーグローの作品がきていたようです。僕も終わってから知ったので見ることができませんでした。

投稿者:米永輝彦 2005/02/10 17:19:55 全く更新しないでいるHPに久々の書き込み有難うございました。次ページに書いてますが、リュネヴィルの火災で奇跡的に焼失を免れた作品なのです。その証明として、この展覧会カタログはもっていますが、私にとって一度も鑑賞したことのない作品です。  私の本を熟読されてるとは穴があったら入りたいぐらいですが、何か良き示唆が得られたということであれば、それはむしろあなたの感性に因るところのものでしょう。

投稿者:写原祐二 2005/08/20 18:36:22 初めまして。 本来ならば昨日書き込めればよかったのですが、この8月19日がブグローの百年忌だったので、私自身はにわかファンにすぎませんが、あちこち調べてみてこちらを発見しました。 印象派の画家たちの逆襲のように旧アカデミーの大家たちが蔑視されているのが現代での状況ですが、特にブグローはもっと注目されていいのではないかと思います。

投稿者:三村 2005/09/29 15:52:42 以前、東京都現代美術館で開催されていた「花と緑の物語展 近代フランス絵画−印象派を中心として」という展覧会にも初期のブグロー作品が展示されていました。 バックに金色があるような小さな作品でした。 2004年の夏の展覧会です。 図録ならまだ、手にはいるかもしれませんが・・。

投稿者:米永輝彦 2005/10/24 19:40:02 ●展覧会『ウィリアム・ブグロー発見への旅』   と き/ 11月12日(土)〜11月21(月)         (10:00〜20:00)          ※15日(火)休館日   ところ/ 新風舎/福岡 マウンテンルート          《イムズ5F》        福岡市中央区天神1−7−11         電話 092-716-5948 ◎展示内容;     ブグロー回顧展(1984年)の特大ポスター(オリジナル)     写真および作品ポスター(絶筆作品を含む)     ビデオ『L'ombre japonaise de William BOUGUEREAU』イヴ・アントワーヌ・ジュッド作

投稿者:米永輝彦 2005/11/03 18:33:07 ●巡回展『ウィリアム・ブグロー発見への旅』   と き/ 12月5日(月)〜12月14日(水)        (10:00〜19:00)         ※最終日;17:00まで   ところ/ 新風舎・名古屋出版ギャラリー       名古屋市中区栄4−1−1 中日ビル7F         Tel; 052-238-0048 (地下鉄東山線・名城線駅 12・13番出口正面)   展覧会

投稿者:米永輝彦 2006/03/08 00:28:37 ブグローのカタログ・レゾネは本体価格が5万円近くする高価なものですから先行予約をとっているようです。一応、初版が2000〜2500部となってます。出版時期が秋頃となってますが、出版社もまだ決まらない現状のようです。本の中に私の名前が数箇所出ている程度で、私は直接関わっていません。友人であるダミアン・バルトリが著者ですが、実際、本の出版を手がけるのはアメリカサイドなのでこれ以上のことは私の立場では申し上げられません。出版時にはこのサイトで紹介します。お問い合わせ有難うございました。

投稿者:米永輝彦 2006/04/16 23:25:13 この作品はギリシャ神話にでてくる愛する2人を,子供たちのほほえましい情景に置き換えて表現しています。  原題は「L'Amour et Psyché, enfants」(アムールとプシュケ, 子供たち)。アムールは小さな妖精、クピド(cupido)とはラテン語でヴィーナスの子、恋愛の神であるキューピッドの意味です。厳密な使い分けはされていないようです。  この作品は別名;ファーストキスと呼ばれてますが、おそらく近年、商業上の受けを狙ってつけられたのでしょう。ブグローは2人の全身像の作品しか描いてないのですが、胸のところに雲をあしらった半身像の横長の図版があります。というのも当時ブグローと契約を結んで版権を握っていた美術商がオリジナルの写真を加工し販売したものなのです。ブグローが晩年、フランス国立図書館に寄贈した彼の作品写真のなかにそれは含まれていますが、しかし、タイトル名を変えたり、作品をトリミングすることは作家の創作上の意図を無視し、芸術作品のイメージをそこなう由々しき行為だと思います。

投稿者:米永輝彦 2006/07/11 20:41:21  クチュリエさん、書き込み有難うございました。恐らく展覧会のカタログのことでしょう。  『ウィリアム・ブグローと彼のアメリカ人画学生』というタイトルの展覧会が来たる9月17日〜12月31日までアメリカ、オクラホマ州タルサのフィルブルック美術館で開催されます。ブグローの2番目の夫人、エリザベス・ガードナーを含むブグローから指導を受けたアメリカ人の作品とブグローの作品、油絵・デッサン・クロッキー・印刷物およそ60点が展示されます。その後、アメリカ国内、ネブラスカ州、オハイオ州、フロリダ州を巡回します。  カタログ『In the studio of Paris』は4人による共著ですが、ダミアンも短い文を載せています。(注意:ブグローの画集ではない)








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私たちは、このページを、シニアの方々、そしていずれシニアになる若い世代が、世代を越えて、ともに考え、ともに感動できるものにしていきたいと考えています。

今月は、19世紀のフランスを代表する画家ウィリアム・ブグローの伝記『W.BOUGUEREAU』(マリウス・ヴァション著)を編訳出版された米永輝彦さんです。米永さんは19世紀フランス美術史研究の他、絵画制作 、肖像画注文制作をされています。米永さんのお話と併せて、ウィリアム・ブグローの作品も御鑑賞下さい。



−ラ・ロシェルの港にて−
 
 

プロフィール

米永輝彦(よねなが・てるひこ)
1955年 長崎に生まれる。
1980年 フランス、ナンシー市へ語学留学。アカデミー・グラン・ショミエール、ルーアン美術学校で学ぶ。
1982年 ル・サロン銀賞受賞。
1984年 パリ・プティ・パレ美術館にて「ブグロー回顧展」を観る。
1993,94 美術ジャーナル画廊(銀座)にて個展開催。
1996年 ラ・ロシェル美術館(フランス)にて「Bouguereau vu par le pinceau de YONENAGA展」開催。この時、ブグロー関係者や子孫と出会う。
1997年 ラ・ロシェル市より依頼され、市の歴史上の人物9点(うち1点がブグロー)の肖像画を制作する。 市の功労者として、メダルを授与される。ブグローの肖像画は、現在も市庁舎に常設展示されている。
著書:『ウィリアム・ブグローの生涯』(2001年東洋出版刊)
ホームページ: http://bouguereau2.g2.xrea.com (ウィリアム・ブグロー研究)

 
 


●先ず、ご編訳された『ウィリアム・ブグローの生涯』についてお聞かせ下さい。

『ウィリアム・ブグローの生涯』は、ブグロー研究に不可欠なジャーナリスト、マリウス・ヴァションの著した『W.BOUGUEREAU』を、私が編訳したものです。著者マリウス・ヴァションは、生前に幾度もブグローにインタビューを行いました。また、バカンスで、ブグローがラ・ロシェルへ行く際にも同行しています。ヴァションは、ブグローの生活を実際に見て、彼の絵に対する考えを十分に受けとめていたのです。
 私はブグローに関する本を、「絶対に日本で最初に出版したい」という思いがとても強かったので、気持ちばかりが先走ってしまった感もありますが、『ウィリアム・ブグローの生涯』は簡潔で、しかも私が著したかったことが十分収められた作品になったと思います。

●米永さんに、「絶対に日本で最初に出版したい」と思わせた画家ウィリアム・ブグローについてお教え下さい。

 ウィリアム・ブグローは、古典的手法を重んじる19世紀後期のフランス・アカデミック絵画と同義と言えるほど、重要な画家です。当時、ヨーロッパのほとんどの国のアカデミー会員となり、あらゆる名声や富を得ました。
 しかし、1905年、ブグローが亡くなった後、その名声は急速に衰えます。時代が印象派を認め始め、古風で型にはまったスタイルは時代の使命を終え、忘れ去られていったからです。私が研究を始めた時も、ブグロー関連の書物は、日本はおろか彼の母国であるフランスの書店でも、目にすることはなく、19世紀の百科事典でやっとその名を見つけられるという具合でした。
 ただ、近年ではアメリカを中心に19世紀フランス美術への関心が高まり、ブグローの作品も再評価されるようになりました。もちろん評価額も鰻登りです。

1875 La Vierge, l'Enfant Jesus et Saint Jean Baptiste. (Copyright Sotheby's NY)
  
1888 L'Amour au papillon. (Copyright Sotheby's NY)
  

●「ウィリアム・ブグロー」とは、どのように出会われたのですか?

 1984年、パリのプティ・パレ美術館で開催された「ブグロー回顧展」で、初めてウィリアム・ブグローのことを知りました。それまで、私は彼の名前すら知りませんでした。
 この時、140点もの作品を見たのですが、鑑賞していく内、私の中に一つの変化が生まれました。彼の作品を見る私の視点です。当初、私はブグローの卓越した技術や色彩の美しさという表面的な美に惹かれていました。それが時が経つにつれ、私の関心は、次第に作品下に見られる彼の仕事に対する真摯な姿勢、そして幼年期より培われてきたであろう、彼の生活および絵画理念に見られるキリスト教の影響の深さに向いていったのです。

●そうだったんですか。誤解を恐れずに言わせていただければ、「運命的な出会い」だったのですね。

Portrait de Bouguereau. (Copyright Teruhiko Yonenaga)
  
1889 L'Amour et Psyche, enfants. (Copyright Sotheby's NY)
  

 ブグローについて、もう少し詳しくお話ししましょう。彼は、1825年、フランス南西の港町、ラ・ロシェルに生まれ、25歳の時、ローマ賞(注1)を受賞して、政府給費生としてイタリアに留学します。そこで、初期ルネッサンス(注2)の時代様式である「15世紀イタリア美術様式」の影響を受けました。また、当時、芸術家の主要な活動の場であったサロン(注3)で1等賞を受賞するなど、早い時期より成功を収め、画家として確固たる地位を築き上げていきます。サロンを訪れる大衆からも絶大なる人気を博し、印象派の先駆的存在であるバルビゾン派の画家(ルソー、ミレー、コローなど)を好むアメリカの収集家からもひいきされる画家の一人になります。
 後に、ブグローは美術アカデミー(注4)のアカデミー会員に任命されます。そして国立美術学校の教授となり、ジェローム(注5)とともに、サロンの代表的巨匠として絶大なる権力を振るいました。この時、マネ、セザンヌなどの印象派画家を、コンクールで落選させています。ブグローは、印象派のような新しいスタイルを断固として認めなかったのです。

注1)ローマ賞・・毎年アカデミーが催す絵画、彫刻、版画、建築、音楽のコンクールで各部門の最優秀に輝いた者に与えられる大変名誉な賞。
注2)ルネッサンス・・14世紀末から16世紀にかけ、イタリアに興り、ヨーロッパ全土に広まったもので、古代ギリシア・ローマの文化を再現し、キリスト教の束縛によって失われた人間性を復活させようとした運動。
注3)サロン・・1881年まで、政府主催の審査制度によって一般の参加が認められていた展覧会のこと。
注4) 美術アカデミー・・サロンと美術学校を組織し美術に関する行政・教育を独占する機関。アカデミー会員に選ばれることは大変栄誉なこと。
注5)ジェローム・・(1824−1904)画家、彫刻家。古代をテーマにした新古典主義的作風やオリエンタリズムで人気を集めた。

●今後のご予定についてお聞かせください。

 長年の友人であるフランス人研究家と協力し、ブグロー没後100年を迎える2005年までに、カラー図版の総目録『カタログ.レゾネ』をアメリカで出版する予定があります。また、長年の調査で得た、ブグロー関連の膨大な資料を盛り込み、この画家の作品・人物像をより鮮明に浮き彫りにした2作目を出版したいと思っています。

●本日はありがとうございました。今後、ますますのご活躍をお祈りしております。

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WILLIAM BOUGUEREAU


開設者
米永 輝彦(Teruhiko YONENAGA)

情報・ご意見お待ちしてます 1984年 パリ・プティパレ美術館にてブグロー回顧展を観る。
1993,94年 美術ジャーナル画廊(銀座)にて個展。
1996年 フランス、ラ・ロシェル美術館にて『Bouguereau vu par le pinceau de YONENAGA』展 開催。
ブグロー関係者や子孫と出会う。



1997年 ラ・ロシェル市より9点の肖像画依頼;
アリエノール・ダキテーヌ(1122−1204 王妃)
シャンプラン(1567−1635 探検家)
レオミュール(1683−1757物理学者)
ヴァラン(1695−1765 法律家)
ラクロ(1741−1803作家)
ボンプラン(1773−1858植物学者)
デュペレ(1775−1846海軍大将)
フロマンタン(1820−1876画家・小説家)
ブグロー(1825−1905 画家)
        市庁舎に常設展示。 市よりメダル授与される。                      フランス19世紀美術史研究 絵画制作 肖像画注文制作
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